中村 孝義『室内楽の歴史』第五章を読んで

 今回は感想文ということで、ある程度無責任に書かせていただけるわけですが……

 私自身、この古典派からロマン派に移るという時代について詳しいわけではなく、またシューベルトについて、室内楽について、よく知っているわけではなく、そのため妙に納得してしまった。実際に弦楽五重奏曲ハ長調を聴いたことがないので、何ともいえないのであるが、曲を解説するくだりは曲を聴きたいと思わせるには充分なものであった。

 こうしてある曲について書かれている本を読むと、高校時代に読んでいたこの種の本についてを思い出す。当時CDを買うことが決して容易でなく、そのため音楽に接する大きな要素として、この様な音楽書があったのである。しかしそのような本と比べてみて、この『室内楽の歴史』という本は、非常に読後感の異なるものである。

 普通、名曲解説というようなことをする本は、その曲の成立過程や時代、そして曲自体の解説を行うのであり、それは『室内楽の歴史』においても、そのほかの本においても同様であるのだが、この『室内楽の歴史』では、視点が曲そのものや作曲家個人に向けられているのではなく、その「時代」というものをとらえているように思えるのだ。一般的な解説本を読むと、どのような作曲家が「このような曲」を書いたという感想しか残らないことが多い。これは高校時代の自分と今の自分の音楽に対する知識の差によるものであるのかもしれないが、それでもこの差は大きいと思う。

 曲を聴くということはその曲だけを聴くのではなく、楽譜を読み解くことがそうであるように、その時代、その様式を聴くということでもある。そしてその様式や時代を語るときに、曲の中からすべてを引き出そうというのではなく、外からその時代、様式を語り、その上でその中に位置するものとして曲を紹介することによって、その時代というものが音楽の特徴を与える要因となっていることを、明確にさせている。

 このことは、この本が「名曲解説」を目的にしたものではなく、読み物として「時代」を語ろうとしている印象を与える。その点が読後感の違いとして現れるのであると思われるのだ。

 今回読んだ第五章では、主にシューベルトを中心に、古典派とロマン派の違いがかたられているが、私が最も興味を感じたのは、シューベルトの持ったであろう、近代的危機意識についての一連の文章である。私が今まで抱いていた、一般的なシューベルト像として、ベートーヴェンを愛し、彼を目指し、そしてそれに終止するようなイメージが、ここで払拭された。作曲家に与えられている楽聖的イメージが、その作曲家及びその作曲家の音楽を受容する際に、邪魔をしているということに改めて気づくのである。ここに改めて、葛藤し、悩み生きたであろう人間シューベルト像を獲ることにより、初めて彼の音楽に接近することができる。

 としたところで、今回のこの章の最後に位置づけられている弦楽五重奏曲ハ長調の解説はあえてなくても良かったのではないかと考える。この曲についての解説を行うことによって、古典からロマンへと移行するさまをはっきりさせようというねらいはわかるが、この一曲によってそれを語るのではなく、彼の多くの作品によって語られたほうが、むしろ理解しやすかったと思うのだ。その原因は、音楽を言葉で語ることの困難さにあると思う。絶対的な価値判断基準がないため、ともすれば主観的に、また客観的に書こうとすれば無機的になりかねない楽曲解説というものが、ここでの一連の文章を分断しているように思える。この印象は、私がより明確なものを志向するために生ずるものであると思われるが、その性格は言葉による楽曲解説というものを、決定的に信じさせないのである。


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公開日:2000.08.12
最終更新日:2001.09.02
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