オリンピックでは本当にもう書かないつもりだったのに(柔道の判定について思う)

 オリンピックでは本当にもうなにも書かないつもりだったのに、どうしても書かずにはおられない。

 男子柔道100キロ超級決勝戦でのこと、見ていた人も多いと思う。篠原信一選手がフランス、ドゥイエ選手の内股をすかし、明らかに一本を取ったと見たところ、それが有効と判定された。その時は不当に辛い判定と思っていただけだったが、辛いもなにもなかった。明らかに一本を取ったと見える篠原選手への有効ではなく、投げられ背を畳につけたドゥイエ選手への有効判定だったのだ。

 明らかに一本勝ち、不当に辛く判定しても篠原選手優勢であるはずのこの勝負は、この有効と、後に取られた有効によって、ドゥイエ選手の優勢勝ちで終わった。

 もちろん我々はこの判定に対し納得がいかない。山下ヘッドコーチは敢然と抗議するのだが、審判が畳を降りた時点で判定が確定するという「ルール」に従い、篠原選手の銀は決まった。副審のひとりも一本と判定していたこの勝負、結局裁定が覆ることはなかった。

 憤懣やるかたない思いでいっぱいである。

 これは日本にもたらされるはずの金メダルが不意になったためではない。僕は、むしろメダルや順位というものは、死力を尽くした選手の掴んだ結果に対し付随して与えられる、副次的なものだと思っている。

 問題は、フェアであるべきはずのジャッジが故意にせよ過失にせよ不当に歪められ、真に讚えられるべきはずの栄誉がないがしろにされたという、勝負に対する不敬である。

 勝負というものは理不尽に思える要素を持ってはいる。いかに実力に秀でたものであっても、時の弾みによって負けを喫する。だが、これは勝負の持つ厳しさであり、勝負においてこの厳しさこそ道理である。そうであるからこそ、勝負というものは面白く、それだけに勝者は栄光に値するものとなりうるのだ。

 だが今日の勝負はそうではない。戦いの果てに得た勝利が、誤ったジャッジによって覆された。これこそは、本来果たされるべき責任と役割が果たされず生じた理不尽であり、ここに道理は存在しない。

 僕はあからさまな親仏家であり、フランスの選手の勝利、栄光に対しては心からの賛意を贈っている。そして、国家国籍等に関係なく、本当に素晴らしいことを成し遂げた選手達には、同じだけの賛意を表してきた。

 しかし、今日ほどラ・マルセイエーズを苦々しく聴いたことはない。しかも、それはドゥイエ選手の責ではないのだ。

 今日の判定については、おそらくしかるべきところから、これからもなんらかのかたちで抗議がなされることだろう。しかし、今日ほどにいたっては、自ら抗議の場に立ちたい気持ちでいっぱいである。

 個人に出来ることは多くはない。しかし、それでも我々個人が抗議の意を、可能なかぎり正当に表明するための方法を、なんらかのかたちで講じ、実現したいと思っている。

 だがその抗議にしても、一度下された判定を覆すことは出来ないだろう。しかし、僕はあの判定の不当を、当事者である審判団が認め、正式に誤りであったと公表、謝罪することを望む。

 日本にメダルが多くもたらせることが重要なのではない。勝負に対して公正であることを、強く求めるゆえにである。ここには栄光に値するひとりの名誉、尊厳が関わっている。

 彼の栄光は正当に評価されねばならない。これが今の僕の、心からの思いである。


NHK シドニー オリンピック オンライン様

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公開日:2000.09.22
最終更新日:2001.09.02
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