第11回 芸術祭典・京

「アルレッキーノと太郎冠者」

演劇ワークショップ三日目



ワークショップ三日目

 いよいよ、身体の節々が、あちこちが痛みはじめてきた三日目。今日を乗り越えれば残りは半分、頑張ろう。しかし、今日は雨。集まりが悪いです。

身体を動かす

 今日は雨が降っているので、ゆっくりの始まり。一日目にやった、パーカッションリズムに合わせての輪になって歩きから始まりました。ひとつひとつを思い出しながら歩くのですが、なかなか思うようにはいかない。はじめゆっくりと進むときは出来ても、だんだん早くなるとリズムと身体がずれはじめてきて、どうにかしようと頭が働くともうどうしようもいかなくなってしまうのです。マルケッティ氏のいうように、頭は前をゆく人との距離を保つことに専念し、身体の方は足で考え手で考えられるようにならないといけないのでしょう。

 動きの中に含まれるコンメディア・デラルテのキャラクターの動き。それが説明されて次へ移ったのですが、ということは明日もまたこれをやるのでしょう。明日は頑張るぞ。

アクロバティックな試み

 二人で一組になって、一人目が手を打って合図、二人目が手を打って応えたら、一人目は駆け寄ってジャンプ。それを二人目は受け止めます。これがまた、えらい目にあいました。

 これは、主人パンタローネに追いかけられるブリゲッラがアルレッキーノに飛びついたところを、アルレッキーノが抱きとめてよたつきながら歩いていくという、コミカルなシーンのための練習です。けれど、これが難しい。

 自分がやることになって、まずは跳びます。考えると出来ないというマルケッティ氏の言葉にしたがって、考えずに跳んだところ誰よりもうまくいきました。で、次は受け止める番。って、そんなん出来る訳ないやん。相手は十五キロ増し。それが跳んできます。五回ほどチャレンジして、ようよう手ががたがたになって受け止められませんでした。

 けれどこれは面白かったです。茂山あきら氏も跳んで、実に和気藹藹とした雰囲気で楽しかったです。

役になってみる

 昨日のアルレッキーノ、ブリゲッラ、カピターノに引き続き、パンタローネとドットーレが追加です。パンタローネは金持ちの老人、ドットーレは自分の地位を鼻にかけた、鼻持ちならない学者です。

 自分の立場的に、これら二役はやりやすいのではないかと思ったのですが、それがまた難しい。そりゃ、マルケッティ氏はすごいです。その役が活き活きとして立ってきます。自分が出来ないのも当然といえば当然ですが、あんだけ出来ないというのも悔しいなあ。やはり、自我を越えないと駄目です。

 一通りの役で一通り苦しんでみて、新たなステップに。次々といわれる役に、素早く変わって成りきっていかなければならないというもの。というか、だんだんこんがらがって、なんの役がどれかわからなくなってきます。しかも言葉はイタリア語。すぐには出ないもので、頭くらくらです。

 けれど、いわれてすぐにその役になるという練習は、考えるよりも早く反応しなければならないわけで、よい経験であったと思います。考えるために出来ないことが、考えないことによって出来るかも知れないという。そんなことも、少しだけ思ったりしたのは不遜に過ぎるでしょうか。

マスクについて(パンタローネ)

 今日のマスクの説明は、パンタローネ老人についてでした。かつては若く力も強くしかも金持ち。男の中の男であった別のキャラクターが、戦争の相次ぐベネツィアの没落とともに、老人に変わった――という伝説があるのだそうです。

 金は唸るほどあるくせに、けちで始末屋。耳は遠く身体もがたがたで、しかも神経質というキャラクターです。アルレッキーノやブリゲッラら、使用人ををあごで使う金持ちの主人なのです。

 自分を卑下して見せたりしながらも、心の中には尊大な自己があって、そういう誰もが持つ自尊心の怪物の側面を持っているマスクのひとつです。


 さて、本日はこれで終了です。この後も、マルケッティ氏らも交えて和気藹藹と雑談したりして、明日もまた楽しみです。が、身体のあちこちががたがた。ブリゲッラを受け続けて右手はよれよれ、首肩は痛く、足腰も同様。

 残りの三日、大丈夫だろうか……


演劇ワークショップ四日目

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公開日:2001.05.24
最終更新日:2001.09.02
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