祝祭的なるもの

 本当は祝祭的雰囲気で書きたかったのだが、どうもそうもいかない気分なのだ。祝祭的というのはほかならぬオリンピックのことで、どことなく素直にできている私は、今日の開会式に単純に感動してしまったのだ。なんてったって、日頃憎み合ってるみたいな国が同じスタジアムに集まって、分断された国家も同じ旗の下に集ったりしてさ、テレビ越しとはいえ、こうした幸いな情景を見られる自分は仕合せだと思ったんだ。願わくば、世界から貧困や不幸やいがみ合いがなくなって、誰もがこのお祭りを安らかに見られる時代が来ればよいと、たまたま経済的に豊かな国に生まれた私は、のんきなことを思っていた。

 祝祭的なるもの、祭りとは非日常に他ならず、そこではあらゆる価値が転倒する。硬直した枠組みなどは放棄され、今や奴隷も自由人となった。すべての人々は隣人と和解し、より高い共同体の一員として一体感のうちにとけあうのだ。危険な狂気への陶酔であるかも知れないが、理性ぶった狂気に身を任せるよりずっとましだ。祭りにはきっと躍動する生が見られる。私がオリンピックを愛するのはそうした理由からなのだ。

 だが我が国にはいまだに無根の差別があって、しかもそいつは私を取り巻く世間にも脈々と生きている。このことを、よりにもよって今日という日に思い知らされ、私の祝祭的気分は台なしになった。魂から汚されてしまうようで、気取るではないが、私はこうしたスマートでない無言の取り決めを心から憎んでいる。不愉快だ、どうしてもそういう話をしたいなら私のいない余所でしてくれ。そのあることも、そしてあんたらがそういうことを問題にするのも疾うから分かっていたから、私がそうしたものを嫌悪していることだって分かっておいて欲しい。

 けれど出てけとはいえない。なにしろここでは私の方こそ少数派。自分から出て行くか、目も心も閉じて生きるか。本当は違う道がいいとは分かってるんだがなあ。


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公開日:2004.08.14
最終更新日:2004.08.14
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