外部をもつということ

 今朝の通勤の車内、大学生くらいのお嬢さんが、脚を景気よく広げてビューラーをお使いでいらっしゃいました。ああ、脚を広げてといっても、スカートじゃないから大丈夫。それとビューラーっていうのはなにかというと、まつ毛を上向きに持ち上げるための器具で、実は私はあれが嫌い。まあそんなことはどうでもいいや。

 私はそのお嬢さんを見たときに、すごくアジア的だと思った。ここで私のいうアジア的には多少侮蔑の響きがありますね。もう少し突っ込んでいうと、この人の中には外部がないと思った。すなわち、パブリックに向かって開かれている私をまったく意識していない、ということです。

 私らは好むと好まざるを問わず外部に向かって開かれた存在であることをやめることができません。特にこれは、他者と共存する空間における必然で、すなわち公衆の場においては我々はプライベートであると同時にパブリックでもあるということを常に勘案しておかないといけない。ところが件のお嬢さんは、パブリックに開かれた自己を意識しているのかしていないのか、ともかくプライベートの垂れ流しをしていらっしゃった。人によってはみっともないと思うかも知れないけど、私はあーあ、つまんねーの。日本に個人の概念が育っていないことかくのごとしかと、朝からちょっとやになっちゃった。

 私は、自分の内に外部をもつという表現をしますが、別のいい方をすると自分を客観視できるかどうかということで、今、いやおうなしに都市化の進行する日本においては、この自分を他人の目で見るという感性、感覚が必要とされているのではあるまいかとそのように思っています。ところが日本ではそうした感覚は育っておらず、といってもそれはそういう土壌がないところに個人という概念だけ乱暴に持ち込んだのだから育つわけがなかったというか、まだ充分な時間が経っていないというか、とにもかくにも日本には他者と個人の明確な概念ができあがっていない、ひいていわばプライベートとパブリックの概念も曖昧のままおざなりにされていると、そのように感じています。

 ここで私がいいたいのは、個人の概念が育っている西洋が素晴らしい、そうでないアジアは劣っている、ということではありません。個人の概念が必要とされる社会はヨーロッパには古くから成立していたが(およそ11世紀ごろらしい)、アジアにおいてはそういう概念を必要としない社会形態があった、それだけのことです。ですが、残念ながら日本は欧化の道をとって、そしてそれは中国韓国をはじめとする東アジア諸国においても同様で、そしてグローバル・スタンダードという暴力的な流れが世界を覆おうとしているような現状においては、やはり個人(individual)という概念は必要なのではないかと感じています。というか、それがなければこの流れに太刀打ちできない、そのように感じています。

 けど、日本では個人を陶冶するのではなく、プライベートの範囲を拡大する方向に動いて、それはもはや目を覆わんばかりで、私はなんだか気持ち悪くってしかたがないのさ。ああ、ここに来てついに愚痴になってしまった。

 愚痴はいいたかないから、これにておしまい。

追記

 なお私は内に辺境を抱えています。

(初出:2006年6月5日)


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公開日:2006.06.22
最終更新日:2006.06.22
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