可能性について(続)

結局人が悩むのは、自分に向いていることというのはなんだろうか、自分にはなにができるのだろうかという、自分自身の可能性をはかりかねているからだと思うのです。願わくば、自分の天職といえるようななにかに巡り合いたい。そして、できればそいつを自分の職業にしたい。こう考えるのは当然のことだと思いますし、自分に合わないことを無理して続けなければならない状況というのはやはり不幸なことだと思いますから、できればやっぱり自分に合ったものを見つけたい。

でも、いったいなにが自分に向いているかわからないという問題もあって、またそれ以前に自分がなにをやりたいかわからないということもあって、だからとりあえずなにをやりたいかが定まった私なんかは仕合せなほうだなと思っています。

さて、昨日の問わず語りは、結局は、ひとつの目標を決めるのに右往左往しましたということをいいたかっただけなのですが、実は私は若いころ、音楽をやるつもりはなくてですね、作家になりたかったんですよ。それも児童文学作家。高校を卒業して、アルバイトして、お金を貯めてワープロを買いました。シャープの書院。私は浪人生活を送る傍ら、時間を見ては文章を書いて、『公募ガイド』を見ては、児童文学賞に送り続けて、とにかく書いて書いて書いて、出して出して出して、落ちて落ちて落ちて、でもこの一年があったおかげで、尋常ではないタイピングスピードと、自分の傾向というのがわかったと思います。

私は決して作家に向いていないということはないと思うのですが(というか、作家への向き不向きってなんなんだろう)、けどあの時分の私には作家になれるような要素はなくて、一年とりあえずいろいろ試してみて、駄目だなと思いました。作家になりたかっただけで、自分の物語を書きたかったわけではなかったのかも知れないと、今振り返ればそうも思えるのですが、そういうことがわかっただけでもよかったと思っています。

可能性やなんやら、あと、自分のやりたいこと、こういうことがわからないというのは極めて自然なことだと思います。人間は、自分で思っているほど自分自身のことなんてわかっておらず、だから迷ったりするのは当然で、けど他人の芝は青く見えるから、友達のだれちゃんはあんなにもしっかり生きていて、目標もしっかりもって、立派だなあ、私なんて駄目だなあ、ふさぎ込むこともあります。今もあります。

可能性、向き不向き、自分のやりたいこと、目標、そうしたものは漠然と生きていて見えてくるようなものではないと思っています。まずは興味を持つということが大切ですが、そして興味を持ったものはまずはじめてみる。それが身体を用いるものならなおさら素晴らしいと思います。実感に勝る知は存在しないのですから。

そうして、いろいろ試しているうちに、うまくいくケースがあったり、あるいはどうしようもうまくいかないこともあったりして、自分の向き不向きがわかってくる。実用的なことに興味が向かえばいいですね。私は残念ながら実用面への興味が皆無なのでなおさらそう思うのですが、ですがなんにせよ行うことはよいことです。それが自分でも気付かなかった自分の可能性を開くきっかけになりますし、また、仮にそのものが自分に向いていないかも知れないと思ったとしても、それでも捨てきれないなにかも見つかるかも知れません。

だから私は、まずはなんでも行うことだと思います。ちょっとかじってすぐに投げるのではなくて、できれば一年二年、三年くらいは続けてみたほうがいいと思う。壁にぶつかってみて、どうやって壁を乗り越えるか模索してみて、壁を越えるごとに少なくとも可能性は広がる。自分自身が開かれていきます。

(初出:2006年4月15日)


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公開日:2007.03.05
最終更新日:2007.03.05
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