変なフランス人! 人はなぜかパトリスをそのように評するのだ。それも、彼をよく知らない人にかぎって! 確かに彼はファッションも奇抜で、言動も派手派手しい。ちょっと変な日本語でまくし立てる彼を見ると、一見変わり者に見えてしまうのはむしろ仕方がないのかも知れない。けれど、その評価は性急すぎる。だって、彼はその表面的な奇矯さの向こうに、果てしない知識の地平と、健やかな理性、強靱な意思を隠しているのだから。博覧強記にして行動の人、パトリス・ルロワ。憧れるね、憧れるともさ。
彼の知性を疑うものは、彼のするインタビューを聴いてみるがよい。無駄のない洒脱な言葉は、よく選別、精査されたうえで発されている。問い掛けはあくまで巧み、はっとするような見事な踏み込みでゲストの真実に迫るさまは、見事としか言い様がない。場は機知と創意に支配されて、その上しなやかさを失わない。インタビュアーとしても一流。深い洞察にもとづき、ありきたりにとどまることのない。それが、パトリス・ルロワなのだ。
2001年度NHKテレビフランス語会話の一コーナー、パトリス劇場でも彼の才は遺憾なく発揮されている。ピアニスト大瀧実花とのコラボレーション、パトリスは詩の朗読をする。詩はピアノに合わせ、ピアノは詩に合わせ、ひとつの世界を作りだす。パトリスの真に迫ったオーバーアクション。それらの底部に流れる共感と愛惜が伝わってくる。目をそらすなんてことは、出来そうにもない。
読まれる詩は、おそらくすべて彼の選んだものだ。シニックで人の世の悲しみに満ちた詩。それはただの言葉なのに、言葉以上のものを伝えてくる。言の葉ひとつひとつに意味と実質がのせられてるのがわかる。なのにすべてはあくまで自然で、わざとらしさやよそよそしさのかけらもないのだ。用意されているものを、ただ連ねるだけで出来上がるというものではない。言の、詩の身につながる流れを、うちに感じてはじめて出来上がるものがある。だとしたら、パトリスはそれを身体にそなえているのだろう。
僕は、詩人たちやパトリスのように、言葉のむこうに意味と実質の両者をあわせてみるにはまだまだ浅い。今は空虚な言葉を吐くばかりとしても、いつかあのような言葉を口にしたい。引き付けられ、涙ながらにそう思う。
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