黄金の馬車

あくまで軽く、けれど深く

原題:Le Carosse D'Or
1953年/イタリア・フランス/103分

監督:Jean Renoir


 南米スペイン領に渡ってきた旅の一座。子どもがダイヤで遊び、道は黄金で敷き詰められる。そんな新世界を夢見た彼らは、現実の前にすっかり気落ちしてしまいます。ところが一座の花形、カミッラが当地のスター闘牛士に、そして総督閣下に気に入られてさあ大変。黄金の首飾りが贈られて、家も新しくなり、ついには総督の力の象徴たる黄金の馬車まで贈られるとなれば混乱は必定。闘牛士と昔なじみの男は、カミッラを取りあって決闘はするし、総督はその権力の座は追われるし。一人の女性に振り回される男たちの鞘当てのおかしさ、ばかばかしさが描かれます。

 ですが、この作品の面白いところは、一人の女を取り巻く恋愛模様にとどまりません。この作品の本当の面白さとは、作品自体が二重構造をもって作られているところ。一座が演ずるコンメディア・デラルテの構造を、映画自体がなぞっているのです。金にものを言わせる男に、マッチョな男性像を誇示する男、戦場帰りの昔なじみ。それぞれのキャラクターは読み替えられ、オリジナルとは違う性格を持っていますが、コンメディア・デラルテの定型に由来していることは明らかです。

 さらに、登場人物だけでなく、終末にいたる技法さえもがコンメディア・デラルテ的です。破滅真っ逆さまだった男たちや一座を救ったのは、劇中でほのめかされてはいたものの、一度も登場していなかった大司教の与える恩赦にほかなりません。そう、この大司教こそがこの作品における機械仕掛けの神であり、その終末にいたらせる力によって、すべての問題をなかったことにしてしまうのです。

 最後に残るのは、すべてが空騒ぎだったということだけ。恋も争いも、なにもかもが空騒ぎです。けれど、その見かけにだまされてはいけないところも、コンメディア・デラルテ的。全ては行き過ぎてしまって、寂しさだけが残る。劇も人生も同じです。軽さの奥に人生の空虚、悲哀がにじんで見えるのです。


評点:3


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公開日:2001.05.28
最終更新日:2001.08.29
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