不協和音

管理社会における音楽

アドルノ、しあわせな男

『不協和音――管理社会における音楽』
アドルノ,テーオドール W. (三光長治,高辻和義訳)
(平凡社ライブラリー)平凡社,1998年。


 アドルノはなんと仕合せな時代に生きたのだろう。まだ絶対的な価値の残映が彼を照らしていた。その輝きを背に受けて、消費社会に右往左往する大衆を断罪し、教育的歌唱活動に隷属する愚にも付かない作曲を批判し、老化し目的を履き違えた新音楽さえ斬って捨てた。だが、彼のその勇猛果敢さはすでに遠い過去のよう。今我々は、彼のように吼えることは出来ない。

 時代が変わってしまった。すべての価値は相対化され、ひとつの価値を基準に他を恫喝することなどかなわない時代だ。大真面目にアドルノの言説をなぞってみせれば、笑われるのが落ちだろう。クラシック音楽にむやみに貼り付けられていた箔は剥げ落ちて、高級な構造的聴取の魔力はもう解けた。時代を貫く価値は消えうせて、皆個別の文化、尺度に引っ込んで、こちらの岸から彼の岸へ声はもう届かない。

 物分かりのいい顔をしてみせるのが精一杯というところだ。眉をしかめて、似非能動性をなじったところで、相手にしてさえもらえないだろう。それどころか、ひとつの価値に突き動かされる自分に、投げた言葉は返ってくる。エリート意識をぷんぷんさせて、エリート意識の奴隷に過ぎない自分を見るのは、なににも増して苦痛だろう。

 結局、負けを認めるしかない。偉大な時代精神に恵まれなかった我々は、他の価値を文化を、一方的に難ずることなど出来やしない。反面、自分の価値観を譲れるわけもなく、自分を選民と事寄せて他人をけなすことに懸命だ。自分の価値がとりわけ優れたものでないことも知っていれば、声も小さくなる。矛盾に気づかない自分でもないのだ。

 アドルノもきっと同じだったのだろう。次第に過去に遠ざかるイデオロギーをあえて掲げて、奮闘したのは自分の文化へのプライドゆえに違いない。だが、誇りうるほどの文化を持たない我々は、彼のようには生きられない。そもそも、イデオロギーにまみれるのも御免。恨みも羨みも意味を持たない。


評点:4


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公開日:2001.06.05
最終更新日:2001.08.29
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