無垢な喜び、不実な喜び

J. S. Bach “Italian Concert, BWV 971”

performed by G. G.


グレン・グールド バッハ『イタリア協奏曲ヘ長調 BWV 971』

所収アルバム


 この曲を弾く彼を、今も映像で振り返ることが出来る。まだ二十七歳だったグールド。いきいきと曲に取り組む彼を、思い浮かべながら聞くことが出来る。貴重な盤といえるのだろうか、それともそれは曲に相対することを邪魔立てするだろうか。

 グールドの演奏はエキセントリック。これが一昔前の風評だった。伝統や慣習に反抗する、永遠の反逆児という彼の姿は、それゆえに多くの人を魅了した。ほかとは違う演奏を目指し、ほかとは違う結果を紡ぎだしたグールド。それは確かに、人を引き付ける力に満ちた、一瞬の輝きを曲からひきだしていた。

 彼の、ほかの誰とも違う演奏は、過去に存在したことのないその曲の新たなかたちを探し求めた結果だ。複製技術時代のアーティストにとって、すでに存在したかたちを再現することは興味の範疇外だった。常に新たなかたちを、新たな光を求めて、そうして見つけ出された稲光がレコード盤に封じられる。我々はそれを手にして、再び立ち上る閃光に目を見張らせるのだ。

 しかし、眩んだ目も次第に慣れる。目を刺すような光の向こうに、今まで見えなかった姿がぼんやりと浮かんでいる。そしてはじめて気付く。今まで聞き慣れたと思っていた曲の、ほんの一部しか理解していなかった自分に。彼の演奏は、表面的にこそエキセントリックだったが、奥底には洞察と理解を潜めていた。真実に気づいた瞬間に、知ったつもりでなにも知ってはいなかった自分の愚かさに恥じ入り、はじめて新たに音楽そのものに向かい合う自分をも知るだろう。

 グールドが求めていたのは、音楽に向きあうということ、それだけだ。曲にまとわりついた伝説や神話をはぎ取り、音楽そのものをあらわにする営為が彼の音楽行為にほかならなかった。生身の音楽に対峙する喜びを、世に知らしめるために彼はピアノを弾いていた。

 彼の音楽を聴き、その向こうにいる彼に思い馳せる時、いささかの不実に心を揺らしてしまう。


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公開日:2001.06.07
最終更新日:2001.08.29
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