平成8年度卒業研究
大阪音楽大学音楽学部作曲学科楽理専攻
サクソフォンは今年で、発明後ちょうど150年経つ楽器であるが、オーケストラに定席を持たず、クラシック分野では一般的に使用される機会も少ない。しかしサクソフォンのための作品も多く書かれており、現在の音楽現場において無視できない存在になっている。
本論文では、サクソフォンのための作品中に現れるさまざまな特殊技法に着目する。サクソフォンの特殊技法は1930年代頃から現れはじめ、1970年代以降に多く用いられるようになる。それらを奏法別に分類し、どのような音楽上の要請からそれらが必要とされたかを明らかにしたい。
そのためこの論文は、サクソフォンが発明されてから現在に至るまでの楽器の歴史の章、そのサクソフォンの用途と演奏に関する歴史の章、そして特殊技法における状況に関する章、以上の三章で構成する。
なお特殊技法が、一般的に用いられる基本的な奏法を拡張するために用いる技法や、それから逸脱した技法を指すことを、断っておく。
サクソフォンは1840年頃に、アドルフ・サックス(注1)によって、発明された。正式な発明年は不明であり、そのため、現在では特許申請のなされた1846年3月21日が一般的に発明年とされている。
この第一章では、サクソフォンが発明された19世紀中期における当時の楽器製作の背景に関する節と、アドルフ・サックスによって製作された楽器と現在使用されている楽器を比較する節の、二節で構成する。
19世紀は、管楽器の製作において抜本的な変革が行われた世紀である。有名なベーム(注2)によるフルートの改良も19世紀に行われており、諸楽器の改良も様々な製作者によって行われている。サクソフォンもまた、この楽器を改良、開発するという気運の中で生まれてきたのである。この、楽器改良の気運が盛り上がった理由としてはいくつか考えられるが、産業革命によって工作機械が近代化したこと、聴衆を含む音楽のあり方が変化したこと、そして、当時、自然科学に対する興味が前進する中で、音響学もまた発展したということ、を理由として上げるのが妥当であろう。
産業革命によって、楽器製作を含む工業は、それ以前の手工業から機械制大工場へと変化し、産業として確立した。この楽器製作が産業化したことは、それぞれのメーカーに、利益追及のための新技術開発、それによる特許、権利の取得を促した。
音響学の発展は、管楽器製作の根幹を大きく揺るがしたという意味では、最も重要な要素である。以前の楽器製作では、楽器を改良する際、既存の楽器が有する問題点に対し、自らの経験則にしたがい楽器の一部を少しずつ改良する以外に方法がなかった。しかし、音響学による新しい考えによって、理論的設計による抜本的開発が行えるようになったのである。この楽器のあり方すらを変化させてしまいかねない改良は、当時かなり物議をかもしたが、結果的に、現在につながる、最良の結果を生み出した点で評価することができる(注3)。
当時の管楽器に加えられた改良と、重要な楽器製作家たちを概観してみたい。
近代における楽器製作の最も重要と言える改革は、ベームによるベーム式フルートの発明であろう。彼は、1832年にすべての半音が同一の物理条件下で鳴ることを可能にする、大きなトーンホールを新式のキー装置で操作する楽器を試作し、また2年間のミュンヘン大学での研究により管体設計の改良を行った。この二つの改良を1847年に統合し、ベーム式フルートはより豊かな音量、均一な音色を獲得した。
このベームの合理的なキー装置は、様々な楽器に応用されるようになった。クローゼ(注4)とビュッフェ(注5)により共同開発され、1844年に特許申請されたベーム式クラリネットは、後に世界標準となる楽器の基準となったことからわかるように、かなりの成功を収めている。
同時代に行われているオーボエの改良は、パリ・コンセルヴァトワールの教授たちとトリエベール一家(注6)によって行われ、1881年にパリ・コンセルヴァトワールによって発表されたコンセルヴァトワール式で一応の完成を見た(注7)。
現在主流であるヘッケル式バスーンの開発は、ヘッケル(注8)とアルメンレーダー(注9)によって1825年に始められた(注10)。しかしそれは、ベームや他の楽器製作者たちが行ったような、徹底した改良が施されたわけではなく、どちらかというと、過去の方法――楽器製作家、および演奏家の経験則に基づく――により改良された。徐々に改良の手を加えられたバスーンは、1880年頃までに、現在使われているものとほとんど同様の型に落ち着いている。
この時代、様々な楽器が様々な製作家の手によって改良されていたが、クラリネットに関する改良楽器は、かなりの数存在したようである(注11)。
そのクラリネットの改良の中には、アドルフ・サックスによるものも含まれている。ビュッフェ、クローゼと同時期に彼が製作した24キーのクラリネットは、ベルギー工業博覧会で賞辞を受けている。1838年にはバスクラリネットの新機構による特許を得ており、1839年にはその後の新式クラリネットの前段階に位置する楽器が発表され、1840年と1842年にはこのクラリネットに関する特許が取得されている。しかし、これらの楽器は多くの長所を持つにも関わらず、どれも普及することはなかった。
サクソフォンは前述のように、1846年に15年間有効の特許を取得している。しかし実際には、サクソフォンはそれ以前に完成していた。ここでは、その流れを追ってみることにする。
サクソフォン開発の動機は、当時盛んであった軍楽隊の、木管楽器と金管楽器の音色がひとつに溶け合わないという問題を解消するため、両者の中間の性質を持つ楽器を製作しようとしたというもの、同じく軍楽隊における中低音楽器の不足を補うため、という理由があげられる(注12)。また別に、弦楽器のようなソプラノ楽器からバス楽器までの、音質が統一された管楽器を製作しようとした、という理由もあげられている。
これらの目的のために、アドルフはサクソフォン属以前に、サクソルン属(注13)というリップリードを発音体に持つ楽器群を製作している。しかしこれらの楽器は、金管楽器特有の管を何度も折り曲げなければならないという制約のため、同属楽器間での音質の統合という面で失敗しており、このことが同一の管形を持つまったく別の楽器、サクソフォンを開発する必要を生じさせた。
しかし、直接のサクソフォン製作のきっかけとなったものは、1838年にブリュッセルで特許を取ったバスクラリネットである。アドルフはこの楽器の改良を進めるうちに、サクソフォンの開発を思い立っている。その過程は、1862年のロンドン万国博覧会のカタログに記された、アドルフ自身による回想に見いだすことができ(注14)、サクソフォンを創造しようとしたアドルフが具体的に行ったことは、1846年3月21日にパリにて申請されたサクソフォンの特許申請覚え書きに先立つ説明の中に見られる(注15)。
サクソフォンの開発は、サックスシステムによるバスサクソフォンが特許を取った1838年頃から着手されている(注16)。また、1939年当時の新聞記事中に金属製のコントラバスクラリネットを「サクソフォン」と表記するくだりがあり、このことからサクソフォンという名称が一般に知られるところとなっていたことが推察される(注17)。サクソフォンが初めて一般に公開されたのは1841年のベルギー博覧会であり、同博覧会のカタログにはバスサクソフォンが記載されている。
当時の作曲家からの評価として、ベルリオーズ(注18)によるものをあげる:「それは素晴らしい特色を持つもので、現在実際に使われている楽器のうちひとつとしてこれに比肩し得るものを私は知らない。即ち豊かで、しなやか、そして素晴らしい響をもつ、また力強くて、また穏やかにもなれる余地がある。」、「作曲家たちはサックス氏のこれらの楽器が広く使われるようになると彼に心から感謝することになるであろう。」、「芸術の仲間からのサックス氏に対する激励が止むことはないであろう。(松沢
1986:33)」
またベルリオーズは「高音域ではやわらかく浸透力があり、低音域は充実した豊かな音で、中音域は何か深遠で印象的なものをもっている」と絶賛し、ロッシーニやマイアベーアも、それぞれ「今まで聞いたうちではもっとも素晴らしい音色である」「理想的な音である」と語っている。ヒンデミット(注19)は彼の音楽書の中に「19世紀以来、いろいろな楽器が作られたが、最高の傑作はアルト・サクソフォーンである」と記しており、ヘーヴァールト(注20)は『古代ギリシア、ローマにおける音楽の理論と歴史』の中で「ギリシア時代以後の吹奏楽器にはサクソルン、サクソトロンバをはじめ、ほとんどあらゆる管楽器の発明や改良に手を染めているが、真の発明と見なし得るものは厳密にいってサクソフォーンの他にはない」と述べている(大室
1983:132)。
サクソフォンは、発明されて以来現在まで、ほとんどその形を変えていない。しかし、演奏技巧面、および音楽的側面からの要請により、多少の差異が生じてきている。この節では、アドルフ・サックスによるオリジナルサクソフォンと、現在のサクソフォンを比較してみる。
発明当初サクソフォンは、オーケストラ用のC、Fに調律されたファミリーと、軍楽隊、吹奏楽用のB♭、E♭に調律されたファミリーの、二つのファミリーを持っていた。しかし、オーケストラ用のC、Fのファミリーは程なくして姿を消している(注21)。
サクソフォンファミリーは、高音楽器から、ソプラニーノ、ソプラノ、アルト、テナー、バリトン、バス、コントラバス、の各7種類、全14種類で構成される。それぞれの調管および実音域は、別表に記す。
特許取得当初のサクソフォンの記譜音域は、bからf'''と設定されている(バリトンサクソフォンは、d♯'''まで)。しかし、現在までの改良によって、最低音はb♭まで、最高音はf♯'''まで拡張されている(バリトンの最低音は、aまで)。最低音の拡張は、最初の特許が切れてすぐに、フランスのいくつかのメーカーによって相次いで行われた。最低音の拡張は1887年に行われたという説もあり、また、アドルフ・サックス自身によって、いち早くなされていたという説もある。最高音の拡張については、明確な資料は残されていないが、1900年代中期頃の楽曲でHigh
F♯がオプションとされているものがあることから、少なくとも今世紀中期頃には、High F♯キーが装備されていない楽器も多かったと推測される(注22)。
最低音がLow Aまで拡張された楽器もあったが、バリトン以外はキー操作の煩雑さから、取り外されてしまった。また、現在ではわずかであるが、High Gキーを持つソプラノサクソフォンが製造されている。
キーアクションに関しては、かなりの改善がなされている。オリジナルでは音域によって使い分ける必要があった第一、第二オクターブキーが、1890年頃自動化された(注23)。またオリジナルでは皆無であった、変化音のための換え指を可能にするキーおよび機構、トリルキー、G♯、Low
C♯のキャンセラーが、現在までに付け加えられている(注24)。
製造方法も変化している。音孔の製造過程において、かつてははんだ付けされていたカラーが、現在では引き上げ方式となったことや、湾曲部やベルが密閉管から作り上げられるようになったことから、管体の強度、気密性が増している(注25)。
細部の変化としては、木製であったマウスピースがエボナイト、ハードラバー、金属などで作られるようになり、しばしばプラスチック製のリードも使用されるようになっている。シープスキンで作られていたタンポは、現在では合成樹脂製のものも使用される。
20世紀初頭には、ギャルド・レピュブリケーヌ吹奏楽団のサクソフォン奏者、デュパキエがケノン社に、最低音をLow Gまで下げ、通常の指使いのまま3オクターブ半の半音階を確実にならせる、特別製のテナーサクソフォンを作らせている。また、1920年頃には、フランスのセルマー社が、アルゼンチンのサクソフォン奏者ラダーリオのためにLow
Aから4オクターブ以上の音域を持つ、サクソフォンを作っている。
1920年頃、世界的に広まったジャズからの影響で、管径が広げられ、マウスピースも改良されたことから、音がより外向的なものになっており(注26)、1930年頃には、現在のサクソフォンのシステムが完成されている。
サクソフォンの演奏に関する歴史は、サクソフォンが発明されてから1920年頃までと、それ以降に大別することができる。発明当初から約四半世紀にわたりサクソフォンが流行した時期と、1920年初頭に現れたマルセル・ミュール(注1)により、世界的にクラシカルサクソフォンが認められて以来の、二つにである。
また、サクソフォンの用途によっての分類も可能である。軍楽隊、吹奏楽での用途、オーケストラでの用途、ソロ楽器としての用途、アンサンブルでの用途、ジャズにおいての用途、等である。
第二章は、サクソフォン発明当初からマルセル・ミュールが現れるまで、マルセル・ミュール出現以降、ジャズでの用途、の三節で構成する。
最初にサクソフォンが使用されたのは、1844年2月3日、パリのエルツ劇場で行われた演奏会においてである。ベルリオーズによる合唱曲『神聖な歌 Op.2 No.6』が作曲者自身の手によって、サクソフォンを含む六種の新しい楽器のために編曲され、ベルリオーズの指揮にて演奏されている。ここで用いられたサクソフォンは、バリトンサクソフォンと伝えられ、演奏者はアドルフ・サックスであった。演奏会の最中に、調整しながら演奏したとの記録が残されている。この演奏会の模様を、カストネル(注2)は「サクソフォンの聴衆への初お目見えは信じられない程の素晴らしさであった(松沢 1986:35)」と評している。
もともとサクソフォンは、軍楽隊での用途のために製作された楽器である(注3)。カストネルによれば、サクソフォンがフランスの歩兵隊バンドに採用されたのは、楽器が完成した1845年のことであり、特許が取得された1846年の翌年には、フランス軍当局から軍楽隊への正式採用を認められている。爾来、ドイツの影響下にあるところ以外での、軍楽隊で使用されるようになった。中でもフランスとベルギーが、もっともサクソフォンを多く使用しており、通常の編成で4管を編入している。大編成では、バス・サクソフォンも加え、6から8管が編入されている。1890年頃、イギリスにもたらされたサクソフォンは、通常、アルトとテナーの2管で用いられ、時にバリトンも加えられた。1890年頃には、スーザ楽団に代表される、アメリカの吹奏楽団で用いられるようになった。ここでは、さらに大人数でサクソフォンを使用し、ソプラノも加えられている。
これらのサクソフォンの編入により、吹奏楽は演奏能力を高め、19世紀から20世紀初頭にかけての、コンサート吹奏楽の流行、民衆間における音楽の発展に貢献している。
オーケストラで最初にサクソフォンが用いられたのは、1845年、カストネル作曲のオペラ『ユダヤ人最後の王』においてであった。その当時のサクソフォンの用いられ方は、ビゼー(付随音楽『アルルの女』(注4))、マスネ(歌劇『エルディアード』(注5)、歌劇『ウェルテル』(注6))などの作品に見られる、色彩豊かなソロのパッセージのための旋律楽器としてであった。また、人声に非常に音色が似ることから、合唱を支援するために用いられることもあった。
1957年には、パリ・コンセルヴァトワールにサクソフォンクラスが開設され、教官としてアドルフ・サックスが就任している。このクラスは、1870年に財政上の理由から閉鎖される。
1958年、サックスは出版業務もはじめ、サクソフォンのためのエチュードや曲を出版している。1878年のカタログには、カストネルの『12のエチュード』や、ドゥメルスマン、サンジュリ、クローゼなどによる、ソロ、ピアノと二重奏、サクソフォン二重奏から八重奏などの、多くの作品が見られる。当時の作品群は、アルトサクソフォンのための作品に片寄りがちな現在の傾向とは異なり、ソプラノからバスまでの、すべての楽器のためにかかれている。
この時代の演奏家で資料に名を残しているのは、ウロー、プリンツ、レピーヌ、デョリール、ローズ等であるが、詳細は不明である。
サクソフォンは、19世紀末になると一旦忘れられてしまい、吹奏楽や一部の愛好家による音楽の中で、細々と生き長らえることとなった。そのような状態から、再びサクソフォンが注目されるには、二つの要素が関わっている。ひとつはアメリカから起こったジャズの流行である。しかしそれ以前にひとりのサクソフォン愛好家によって、サクソフォンがオーケストラでのソロ楽器として扱われるようになった。
そのサクソフォン愛好家とは、1853年にパリで生まれたエリーズ・ホール・ボイヤーという女性で、彼女はアメリカに渡った後、サクソフォン曲の開拓を行った。彼女の委託による22曲にのぼるサクソフォン曲の中には、今日でもよく演奏される、有名なドビュッシー(注7)の『ラプソディー』(注8)が含まれている。
ボイヤーの委託により『ファンタジー・モーレスク』(注9)を作曲したコンベル(注10)は、有名なサクソフォン奏者であり、また作曲家、理論家、教育者であった。彼は1902年にパリ・ギャルド・レピュブリケーヌにクラリネット奏者として入隊し、その後サクソフォン奏者に転向している。コンベルは、1922年にパリの第5歩兵隊・軍楽隊に兵役義務のためいたミュールに、ギャルド・レピュブリケーヌへの入団を進め、翌1923年、ミュールが入団した二ヶ月後に独奏者のポストを退き、退団した。このため、ミュールが新しい独奏者に就くこととなる。
マルセル・ミュールは近代サクソフォンの奏法を確立した人物である。彼の行った業績として、クラシックサクソフォンにおけるヴィブラート奏法の確立、サクソフォン四重奏団の結成などをあげることができる。彼は、ジャズやヴァイオリンの演奏からヒントを得た音楽的なヴィブラート奏法を確立し、「最高の芸術家」として高く評価されている。1828年には最初のサクソフォン四重奏団である、ギャルド・レピュブリケーヌ・サクソフォン四重奏団を結成する。この四重奏団の演奏によって、サクソフォンによる調和の取れたアンサンブルの芸術性の高さを広く一般に認識させ、サクソフォンの室内楽分野での可能性を開いた。この四重奏団のために、多くの作曲家がオリジナルの四重奏曲を作曲し、サクソフォン四重奏の演奏会が盛んに開かれるようになった。1936年にギャルドを退団した彼はマルセル・ミュール・サクソフォン四重奏団を結成する。
演奏以外でのミュールの業績は、教育活動やさまざまな著作活動である。1942年には、パリ・コンセルヴァトワールのサクソフォンクラスが復活し、その教授としてミュールが任命されている。また彼は、サクソフォンのための編曲を行い、また教則本などを著すことによって、近代サクソフォンの奏法を確立し底辺を広げた。多くの作曲家が、彼と彼の四重奏団のために曲を書いたことにより、サクソフォンのレパートリーも増え、評価も高まることとなった。
ミュールが近代サクソフォン奏法を確立したのだとすれば、現代サクソフォン奏者の始祖はシーグルト・ラッシャー(注11)であるといえる。彼は素晴らしい技術を持ち、また多くの特殊技法を使用したことで知られ、特に通常の音域よりも1オクターブ以上の高音域まで演奏することができたことで有名であった。初期の有名な独奏曲やコンチェルトは彼のために書かれたものが多く、特に有名なものでは、グラズノフ(注12)『コンチェルト Op.109』(注13)、イベール(注14)『コンチェルティーノ・ダ・カメラ』(注15)、ダール(注16)『コンチェルト』(注17)等がある。これらの作品により、サクソフォンの音楽のあり方は、一つの方向に定められることになる。また彼はアメリカでの教育活動を積極的に進めている。
1943年にパリ・コンセルヴァトワールを首席で卒業したダニエル・ドゥファイエ(注18)は、その技術の高さからミュールの後継者として認められ、ミュールの引退した1968年からパリ・コンセルヴァトワールの教授を務めた。彼はドゥファイエ・サクソフォン四重奏団(注19)を率い、サクソフォンアンサンブルの啓発に携わり、多くの公演、録音を行った。この四重奏団のために書かれた作品は数多く、現在での重要なレパートリーとなっている。
1952年には、ジュネーブ国際音楽コンクールに史上初のサクソフォン部門がもうけられ、すべての賞をパリ・コンセルヴァトワールのメンバーが独占した。
また、ドゥファイエに伍するサクソフォン奏者として、ジャン=マリー・ロンデックスがいる。彼は奏者としての高い技術、音楽性を持っていただけでなく、現代音楽にも理解を示し、演奏活動を通じ開拓を行ってきた。さらに彼は優れた教育者であり、サクソフォンのための編曲も数多く手がけ、さまざまな研究活動を行い、サクソフォンの古文献を発掘し、埋もれた作品を紹介するなど、多方面にわたる活躍をしている。また著作活動も行い、1971年に出版された、サクソフォン作品のリストである『サクソフォン音楽125年』やその続編、1988年に出版された現代技法のテキスト『ハロー! Mr.サックス』など、重要な著作も多い。フランス・サクソフォニスト協会の創設者であり会長である。
アメリカでは、パリ・コンセルヴァトワール出身のフレデリック・ヘムケがノースウエスタン大学の教授を、またユージン・ルソーがインディアナ大学の教授を務め、多くの奏者を育てている。ユージン・ルソーは演奏活動、教育活動以外に、著作活動も行っており、また楽器メーカーの顧問も勤めている。
ユージン・ルソーとカナダで活躍するサクソフォン奏者ポール・プロディの提唱により、世界サクソフォン会議が1969年にシカゴで開催されている。その後この会議は、2、3年ごとに世界各地で開催されており、多くのサクソフォン奏者と、サクソフォンのための作品を紹介している。
現在、中心的な活動を行っている奏者として、クロード・ドゥラングルとジャン=イヴ・フルモーをあげる。ドゥラングルは1988年からパリ・コンセルヴァトワールの教授を務めており、演奏活動、録音活動、教育活動を幅広く行っている。フルモーはセルジー・ポントワーズ国立音楽学校教授であり、ドゥファイエ・サクソフォン四重奏団の後継と目されている彼の率いるフルモー・サクソフォンカルテットは世界各地で指導、並びに演奏活動を行っている。
20世紀に入り、サクソフォンはクラシック分野以外で用いられるようになる。サクソフォンが吹奏楽で使用されていたことから、アメリカで発生したジャズでも使われるようになったのである。初期のニューオリンズ時代では、まだサクソフォンは用いられていなかったが、1917年以前の数年間では、ミシシッピー川を航行する船上で演奏をしたかなり大きなジャズバンドで、補助的にテナーやソプラノサクソフォンが使われていた。
サクソフォンがジャズで本格的に使用されるようになったのは、1920年に入ってからである。ジャズクラリネット奏者であったシドニー・ベシェ(注20)が、ソプラノサクソフォンでのレコーディングをしたことから、サクソフォンが一般聴衆の間に知られるところとなったのである。ジャズ古典時代といわれる1920年代と30年代に、サクソフォンは独自の発展をとげている。明瞭であるがソロには単調であるアルトサクソフォンは、合奏においての主要楽器としての役割を持ち、表情に富むテナーサクソフォンは、ソロ楽器としての役割を担った。特にテナーサクソフォンは独自の演奏をする演奏家たちによって、しわがれた音色で話し言葉のような演奏が行われ、また、甘くロマンティックにも演奏され、サクソフォンの特性を発揮させている。
フレッチャー・ヘンダーソン(注21)は、アルト、テナー、バリトンを4本から6本使用するサクソフォンセクションを確立させ、サクソフォンをリード楽器の中心とした。そのことにより、ジャズの権威ポール・ホワイトマン(注22)に「サクソフォンこそジャズ音楽の王である」といわしめるほどの、高い評価をサクソフォンは得ることとなった。
ジャズでは、普通クラシック分野では用いられない、スラップ・タンギングやポルタメント、スメアやラフといった奏法が用いられ、そのことによって、1930年代には、サクソフォンは低俗な楽器であるとの誤解を受けることもあった。しかしこれらのジャズで始められた奏法が、サクソフォン奏法に取り入れられていくこととなる。
サクソフォンの特殊技法は、1930年代頃より徐々に現れはじめる。しかし、本格的に特殊技法を使用する曲が現れるのは、1970年代に入ってからである。よって第三章は、20世紀に入ってからの音楽の流れを概観する第一節と、サクソフォンの特殊技法を分類説明する第二節、そしてそれらの考察を行うための第三節によって構成する。
20世紀に入り、伝統的な音楽秩序から抜け出そうとする動きが現れる。例えばそれはハウアー(注1)やシェーンベルク(注2)の無調主義、十二音技法、シュタイン(注3)によって始められた四分音の使用などである。そして、その動きの中に、音色に対する可能性を認識し、活用しようとする動きがあった。
1911年、シェーンベルクは自著『和声理論』(注4)の末尾において「音色旋律」という、新しい要素を提言している。音高がメロディを作り出すのと同様に、音色が旋律を作り出すというその考えは、1908年にシェーンベルクによって作曲された『オーケストラのための五つの小品』において初めて使用され、それ以降一部の作曲家にとって重要な要素となっている。例えば、シェーンベルクの弟子であるヴェーベルン(注5)はバッハの「六声のリチェルカーレ」(注6)を音色旋律に基づきオーケストラ編曲しているし、彼ら新ウィーン楽派のの特徴として、通常用いられない奏法を使用するというものがある。
さらに、単一の楽器であってもさまざまな音色の変化、可能性を開拓することにより、独奏やアンサンブルでの用法が拡大されるようになった。例えば1930年代にカウエル(注7)はピアノの新しい音色の可能性を追及した結果トーンクラスターや内部奏法にいたり、ケージ(注8)は1940年頃にプリペアードピアノを考案した。これらは多彩な音色を探求、開発した結果であり、またさまざまな音(非楽音、雑音、騒音)が同一価値で扱われるようになった結果である。
第二次世界大戦が終結した1945年以降、音色に対する追及はさらに加熱する。
1950年代に入ると、十二音技法から発する総セリー音楽が現れる。総セリー音楽はメシアン(注9)、ブーレーズ(注10)、シュトックハウゼン(注11)らにより作曲され、音高、ダイナミックス、音の持続とともに、音色が作曲のための要素としてセリー化された。また1948年には録音テープを使用した具体音楽が始められ(注12)、1950年代には電子音楽へと移行した。
管楽器においても、音色探求の傾向は現れている。フラッタータンギングやさまざまな種類のヴィブラートが使用されるようになり、微分音のための奏法、音域による音色のコントラスト、さまざまなアタックが追及、開拓され、さらには、打鍵音や打孔音、息音や発音中の発声など、非楽音や騒音までが音素材として用いられるようになった。これら特殊技法や奏法の可能性が拡大した原動力の一つとして、これらの開拓を行った奏者がいることを忘れてはならないだろう(注13)。
サクソフォンの特殊技法は、大まかに、音域を拡大するためのもの、音程に関するもの、音色に関するもの、サクソフォン本来の用法からかけ離れたもの、アーティキュレーションに関するもの、に分類することができる。以下において、さらに細かい分類を行う。
音域を拡大するための技法としては、フラジオがある。フラジオというのは、通常の音域を越える高音を得るための技法であり、特殊な運指を用いることによって行われる。これはアルティッシモ、ハーモニックスとも呼ばれる。
この技法の歴史は古く、一説には19世紀末期、アドルフ・サックスがまだ生きていた時期に、すでに行われていたという。しかし、その当時におけるこの技法はまだ不完全であり、貧弱で不安定であったことから、アドルフはそれを認めなかった。この技法が実用的に用いられ始めたのは、一般的にフラジオによる演奏を始めたとされる、シーグルト・ラッシャーが現れた1930年頃からである。ラッシャーは通常音域より1オクターブ以上高い音域まで、正確な音程で的確に演奏することができたため、当時の作曲家は彼のために、フラジオを用いる曲を多く書いた。しかし当時、すべてのサクソフォン奏者がフラジオでの演奏を得意としたわけではなく、ラッシャーにささげられたイベールの『コンチェルティーノ・ダ・カメラ』のフラジオの箇所は、ミュールの助言によってアドリブとされている(譜例1)。
現在では、フラジオは特殊な記譜や特別の注意なしに、通常の記譜法でかかれる場合がほとんどである(譜例2)。だが、奏者にとってはいまだ困難な技術である。
サクソフォンはすべてのキーがカバードキーであるため、リコーダーやフラウトトラヴェルソなどで行われているような、指穴から指をずらす方法によって音程を変えることができない。そのため、アンブシュアを変えることと、音程を変えるための特別な運指を用いることによって、音程を変化させる。
アンブシュアを変えて音程を変えることは、一般的に行われることは少ない。それは、安定した音程を常に得ることができないということと、音色の変化を伴うためである。そのため、特別に指示されている場合を除いては、運指によって音程の変化を行う(譜例3)。アルトサクソフォンのための四半音の運指は、運指の自由度が低く換え指を行うことのできない特に低い音域(記音b♭からd')を除き、最高音域(f♯''')までのすべてが体系化されている。同様に、バスからソプラニーノまでの各サクソフォンのための四半音スケールのための運指も、(アルトサクソフォンほどではないが)網羅的に体系化されている。
ベンドトーンやポルタメントは、カバードキーを持つサクソフォンでは、非常に難しい技術である。指穴から微妙に指をずらすことによってこの効果が得られることは、バロック時代にはすでに知られていた。しかし、サクソフォンではカバードキーを徐々に開閉することと、アンブシュアの変化を伴うこと、そして息の用い方を変化させることによって、この効果を行う。ベンドトーンは主にアンブシュアを変えることによって行われ、2度前後の音程を低下させる。ポルタメントは、主に上向で用いられる(譜例4)。
音程に関わる技法の中で、もっとも特異なものは重音であろう。複数の音程を同時に発音する重音は、それ専用の特殊な運指と、時にアンブシュアの変化を伴うことによって実現される。通常の重音は、二重音か三重音が主であるが、時に四重音まで達するものがある。また、息の速度やダイナミックスを変化させることによって重音をアルページオのように演奏したり、重音中のひとつの音だけを演奏することも、特殊なケースにおいて可能である。
重音の調査はM・マゾーニによって、1960年代にアメリカで始められた。この調査によって、特別の用意を必要としない重音の例が明らかにされ、また1982年にD・キーンジによってかかれた『サクソフォンの重音技法』(注14)はそれぞれのサクソフォンのための重音を網羅している。
サクソフォンのための重音を使用する作品は、デニゾフ(注15)の『ソナタ』(注16)が主要作品として最初のものであるとされる(譜例5)。
サクソフォンの音色に関する技法は、音色自体を変化させるもの、ヴィブラートやフラッタータンギング等の音色に付随して効果を及ぼすものに分けることができる。さらに、音色自体を変化させるものは運指によって効果を得るもの、アンブシュアおよび息によって効果を得るものに分けることができる。
音色自体を変化させる方法でもっとも体系的にあらわされているものは、運指を変更することによって、同一の音程の中で、異なる音色を得る技法である。ロンデックスによる『ハロー! Mr.サックス』(Londeix
1989)は、バスからソプラニーノまでの各サクソフォンのために、記音d'から最高音までのすべての音に対する運指の組み合わせを、可能な限り記している。
この技法をロンデックスはハープで得られる同様の技法からビズビリャンドと呼び、音色トリルの典型例であるとする。この技法の用法としては、現代音楽で用いられる音色旋律の考えに基づくフレーズのほかに、ロンデックスの編曲によるバッハの無伴奏チェロ組曲に見られる、異なる弦で同じ音を得る効果をシミュレートするものがある(譜例6)。
これに対しアンブシュアや息を変える方法は、個々の技法ごとに確立はされているものの、あくまでも奏者により多少の差異を見せる。この方面の技法は主にジャズよりもたらされたものであり、その中でも代表的なものとしてサブトーンがある。サブトーンは、顎先を引き入れ下顎を下げることによって得ることのできる効果であり、高次倍音の抑制された通常の音色とは異なる色調を見せる(譜例7)。これはもちろん音色のための技術であるが、時に非常に弱音で演奏するときに用いられる可能性があることを、記しておく。
ヴィブラートがマルセル・ミュールによって始められたことは、先に述べたとおりである。しかし当時のヴィブラートがあくまでも音色を装飾するための副次的なものであったのに対し、現在でのそれは重要な音色の要素の一つとなっている。その例として、以前は奏者の裁量に任されていたヴィブラートの使用を、作曲家自らが指定するようになったことをあげることができるだろう。
サクソフォンにおいて使用されるヴィブラートは、音程を変動させるものと、強弱を変動させるものの、二種類に分けることができる。従来は音程を変動させるヴィブラートが一般的に使用されてきたが、近年の作品ではそれぞれが明確に使い分けられる可能性がある。また、ヴィブラートの有無、ヴィブラートの振幅の幅、速度に対しての指定がされる。ヴィブラートの有無は従来どおりの奏法をあらわす用語(con
vibrato、senza vibrato)が用いられるほか、v.(con vibrato)やn.v.(non vibrato)という記号が用いられることもある(譜例8)。ヴィブラートの振幅の程度をあらわす際も同様に、molto
vibratoなどとあらわされることがあるが、現在では、ヴィブラートの程度に応じた波線をもってあらわすことが主流となっている(譜例9)。
フラッタータンギングは決して新しい奏法ではなく、ヴィブラート同様他の楽器でも用いられるものである。サクソフォンのヴィブラートは口腔内にマウスピースが挿入されるために、イタリアのrの発音によるものは困難を究め、特に小さなマウスピースを持つ楽器以外では試みることさえ不可能である。そのためサクソフォンではフランス語で用いられるrの発音によって引き起こされる。これは舌の動きによって得られる音色のためのトレモロである(譜例10)。
サクソフォン本来の用法でない発音については、打楽器的効果、騒音的効果に分けることができる。
サクソフォンはキークリックもしくはパッドサウンドと呼ばれる技法により、打楽器的効果を得ることができる。この技法によって得られる音は非常に小さいものであるが、これらの大部分を拡声装置を使用せずに聞き取ることは、充分可能である。的確に、音程を持つ打孔音を得るために、バスからソプラノまでの各サクソフォンのための、いくつかの運指が用意されている。ソプラニーノサクソフォンでは不充分な音量しか得られないため、この技法は実用的でない。
この技法によって得られる音は、明確な音程を持たない打孔音と、明確な音程を持つ打孔音の、二種類がある。その双方に特定の運指が用意されており、定められたキーを強く打つことにより、目的の音を得ることができるようになっている。
エオリアンサウンドは、サクソフォン本来の音を発声せずに、空気が通り抜ける際の音だけを得るものである。当然ながら強音を得ることはできず、キーのほとんどをふさいだ状態で、弱音を得るのが一般的である。son-姉lという表記によってあらわされるが、必ずしもそうであるとは限らない(譜例11)。
またこれと似た効果を持つものとして、ネイズルサウンド(鼻にかかった音)がある。これは喉をしっかりと閉ざした状態で奏することにより、ppからmpまでの音量を得ることができるものである。
音色に関わる技法の中でもっとも特異なものはトランペットライクサウンドである。これはマウスピースを外した状態のサクソフォンを、金管楽器と同じくリップリードで吹奏することにより、得ることができる。この奏法のための具体的な表記法はなく、音符の上に「sons-trompettes」とだけ記される(略記は「Sons-Trpt.」)。
この技法は、バスからアルトまでのサクソフォンのための、体系的な(しかし網羅的ではない)運指法が編み出されている。強音で奏することによってより高い音を得ることも可能であり、喉や矯正用の運指を用いることによって、音程の補正も可能である。全音域にわたってレガート、スタッカートで演奏することが可能であるが、一般的に使用される技法ではないため、その使用はほとんど見られることがない。ロバ(注17)作曲の『七つの島』(注18)という作品中に、「もし可能なら」という但し書き付きで、この技法が用いられている(譜例12)。
アーティキュレーションを形作り、かつ新しく音の要素に加えられるべきものとしてアタックがある。フランソワ・ロセ(注19)は、ドビュッシー、メシアン、シェーンベルク、ベリオ(注20)、リゲティ(注21)の作品中に見られるさまざまなアタックの用法を引き合いに、アタックが作曲家の重要な関心事として長期にわたり存在したことに言及している(Londeix
1986:92)。またアタックが重要視されるのと同様に、音のディケイも重視されている。ロンデックスはアタックとディケイ、さらには音の形を、シラブルとその形状によって表にまとめている(注22)。打撃音に似たアタックを持つスラップタンギング、舌による打撃音のみを発音するタンスラップ、破裂的な音を得るオープンスラップ、シャンテ(フェードイン)と呼ばれる無音から生じられるもの、無音から生じられ無音に消え行くもの(白丸に斜線の記号であらわされる)、レゾナンスアタックと呼ばれる音の響を保ち徐々に消えて行くもの、延ばされている音の末尾にアクセントが加えられたもの、クレッシェンドしてゆき破裂するバースティングサウンドなどである(譜例13)。
これらは伝統的な作品で用いられるよりも、現代的な作品で用いられることが多い。しかしスラップタンギングは1930年頃の編曲作品において使用されており、独特の打楽器的なスタッカート効果を生んでいる(譜例14)。
スラップタンギングなどこれらの技法は主にジャズにおいて開発されてきたものである。スラップタンギングにおいては、ジャズ古典時代のバスサクソフォン奏者であるロリーニが得意としていたことがよく知られている。おそらくジャズサクソフォン奏者によって始められたこの技法が、クラシック分野のサクソフォンに流入したのであろう。また、シーグルト・ラッシャーの録音に、スラップタンギングを使用するものが残されている。
サクソフォンのレパートリーは現代作品が多く、そのため前衛的な楽器であるという印象が一般的に流布しているが、意外なことにサクソフォンはそれほど前衛作曲家に用いられてきたわけではなかった。サクソフォンが19世紀末期に一旦忘れられ表舞台から姿を消したこと、オーケストラに定席を持たなかったため一般的に用いられることが少なかったこと、サクソフォンの教育が1942年にパリ・コンセルヴァトワールで再開されるまで本格的に行われなかったこと、さらにそのコンセルヴァトワールを中心とするサクソフォンの教育者たちの現代作品に対する興味が薄かったこと、それらの要因から作曲家たちはサクソフォンにあまり目を向けることをせず、サクソフォンのための作品――特に現代音楽のジャンル――は数少ない(注23)。
サクソフォンのためにかかれた現代作品は、1970年代に入りようやく本格的に作曲され始めた。フルートのための本格的な現代作品がすでに1930年代に書かれ(注24)、1950年代からレパートリーが出揃い始めたことを考えると、驚くほどにサクソフォンがこの分野で遅れていることがわかる。当然サクソフォンの現代作品のレパートリーは数少なく、1983年のジュネーブコンクールのために1980年に作曲されたベリオの『セクエンツァIXb』が、クラリネットのための『セクエンツァIX』を書き改めたものであることからも、サクソフォンのレパートリーの貧しさがわかるだろう。
しかし、現在ではサクソフォンのための現代作品も充実しはじめている。特に1980年代に入ってからはサクソフォンのための作品が多く作曲され、また現代奏法のためのテキストも出版されるなど、サクソフォンの現代音楽分野に関する基盤が整備されてきている。
これはサクソフォンの特性を発揮できる奏者が数多く現れたことによる。
またサクソフォンの特性が、現代作曲家の求めるものに合致しているということも考えられる。即ち、他のリード楽器に比して、発音可能な音色、効果が多彩であること、ダイナミックスの幅、音色を変化させることのできる余地が、広いということ、合理的なキーメカニズムの持つ機能性、そしてそれらの効果を得ることが比較的簡便であるということ、である。サクソフォンの音域の狭さが障害になるが、これもフラジオを使用することにより解決できる問題である。しかし、いくら他のリード楽器に比べ簡便であると言えど、まだこれらの特殊技法は多くの奏者にとって困難なままであり、そのことは、サクソフォンの特殊技法が、まだ特定の奏者の、個別の技術のみに負っていることを示している。よって、サクソフォンの特殊技法が普遍的なものになりえていないというのが、現状である。