メトロノームのすすめ

 音楽の練習をする人でメトロノームを使わない人がいるらしい。いや、俺、ドラムマシン使っているよという人はいるだろうが、こういう人はオッケー。私がここで問題としたいのは、一定のテンポを刻むメトロノームなりドラムマシンをまったく使わず、自分の勝手のテンポで練習している人のことだ。

 老婆心であることはわかっているがあえていいたい。そんな練習は無駄だから、やめた方がいい。

ルバート嫌い

 私は、音楽というものは、一定のテンポの上に成立するものだと思っているのだが、どうもそう考えない人も少ないないようだ。以前インターネット上の会議室で、クラシック音楽においては小節線は存在しないかのように演奏するべきだという意見を述べている人がいて、私はそんな話聞いたこともなく、むしろその逆だと思っていたものだから、友人のピアニスト連中に確認したら、私と同意見だった。けれどこれはまだましなもので、他に見かけたものでは、曲を演奏するときはルバートで弾くんだから、練習にメトロノームは必要ないというのも。私は正直頭を抱えたよ。

 世の中にはルバートが好きな人がどうにもいるようで、けれどルバートというのはあくまでも一定のテンポが存在していることを前提とした表現であると思うのだがどうだろう。きちんとした線も引けず、パースもとれず、デッサンもいい加減な人がデフォルメといって、いい加減な絵を描いたりする。見るたびになんか勘違いしてるよなと思う。音楽においても同じことで、ちゃんとイン・テンポで弾けてはじめて次にリタルダンドだアッチェレランドだルバートだを考えるべきところを、イン・テンポでやれないうちにルバートばかりやっている。ルバートが音楽上の要請でおこなわれるものならまだしも、どうも世の中には自分が気持ちいいからとか、あるいはそこは早く弾けないポイントだからとかでおこなわれるルバートもあるようで、そういうのははっきりいってルバートとはいわない。ぐにゃぐにゃにゆがんでいるだけじゃないか。

 音楽には様式というものもあって、例えばバロックではほとんどテンポを動かさず、曲の終わりでリタルダンドするのも避けるべきことで、こういうテンポの揺らしを嫌うのは古典でも同じなんだが、そういう曲でルバートをがんがんかける人も少なくない。こういうのを聴くと正直気持ち悪いのだが、弾いている本人は自分の尺度でしかものを見られなくなっているからなのか、その変さに気付かないようだ。

 ロマン派の作品ならどうかというと、ここでもやっぱり状況は同じで、確かにテンポの揺れを伴う場合もあるが、だからといってじゃんじゃんやっていいってもんじゃない。ポイントがある、ここというポイントが。ロマン派は前提として古典派を基礎としていて、だから本来は大きく古典を逸脱するようなものじゃないんだが、ロマン派ならなんでもありとばかりに好き放題にする人は後を絶たず、げんなりする。

 私はグールド主義者なので、比較的様式からの逸脱を許容する質なのだが、それでも限度がある。私が許容するのは、逸脱してそれで美しいものであり、逸脱してやっぱり美しくもなんともないものは許容しない。

メトロノームはテンポ感を育成する

 やっぱり、基礎練習は当然として、曲の練習時にもメトロノームを使うべきなんだよ。メトロノームを使っての練習は、テンポに対する感覚を育むのに大変効果的だ。テンポがしっかりしていて、そこにリズムに対する感覚があって、音楽の根本はそのあたりにあるんじゃないか。テンポがめろめろでリズムがぐだぐだで、けれどいいという音楽は知らないよ。テンポに揺れがあるとしても、その根底に一筋テンポがぴしっと通っているのがわかるからめちゃくちゃには聴こえない。そうしたしっかりしたテンポ感を得るには、一定の間隔で拍を打ってくれる誰かに習って、それを自分の秤にするしかないじゃないか。

 メトロノームはすごく気のいいやつで、何時間でも練習につきあってくれる。文句ひとついわず、たまにぜんまいを巻いてやるだけで、本当に根気よく、かちかち一定の拍を刻み続けてくれる。こんなメトロノームを使わない手はないじゃないか。

 練習時にはメトロノームを使うこと。あるいはリズムマシン、ドラムマシンを使うこと。なにをおいても、これは最低限度のことだと思う。


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公開日:2006.01.24
最終更新日:2006.01.24
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