性善説を信じたいのだけど

 先日、職場にて同僚との会話の途中、私はそれでも性善説を信じたいのだという旨のことをいって、つまりこれは私は性善説を信じていないということを明らかにしたのに同じことで、そう、私は性悪説を信じていないように性善説も信じていません。

 なんで薮から棒にこんなことをいいだしたかというと、今日インターネットというのが基本的に性善説に基づく空間であるということを実感したからで、なんでそんなことを実感したかというと、今日、私のBlog数百のコメントSPAMが押し寄せたからで、なんでこれが性善説になるのかというと、こういったことがあるたびに、基本的に性善説に頼るインターネットの諸技術は、悪意の前にあまりに脆いというのを思い知るから。つまりこうした行為が横行すればするほど、逆説的にインターネットの性善説が浮き彫りにされるというわけです。

 インターネットの性善説なんてものは参加者がずっとずっと少なくて、規模こそは大きくても小さなコミュニティでしかなかったような時代にしか生きることはできなかった思想であると思われます。その頃のインターネットを振り返ると、商業主義なんてものはまずもって皆無、素朴に自分の持っている情報を共有しようという意識にあふれていて、だから確かに性善説が感じられた空間でした。ですが、別に私は商業主義が悪いだなんていうつもりはありませんが、インターネット上に金もうけの匂いが立ちこめるに従って、利己的な人間も大量に流入してきて、当初はメールを使ったSPAMにはじまり、次第にコメントSPAMやフィッシング、スパイウェアなどなど、そうした悪意も膨らんできた。でも、メールの仕組みひとつ取ってしても、基本的にSPAMに対しては無力。発信者は自己申告だし、とにかく受け取ってからひとつひとつ判断するしかなくて、最近でこそブラックリストや認証システムが整備されつつありますが、まだまだそうした対策は不足していて、これはつまり悪用されないという前提でもって現行のメールの仕組みができあがったというあらわれでしょう。

 今日、私はBlogでのコメントを全面拒否するという判断をして、これはつまり悪意に負けたといいかえていいかと思います。ですが、それでも私は性善説を信じたいのですけどね。世の中、あちこちに悪意があることはわかっていますが、それでも性善説を、それがたとえインターネットの片隅だけの話だとしても、信じたいのですけど、こんなささやかな希望も通じませんか?


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公開日:2006.03.11
最終更新日:2006.03.11
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