八十年代に少年時代をおくったゲームキッズなら、誰もが知っているフレーズがある。
「ゲームは一日一時間」
ファミコン全盛時代に一秒間十六連射という技を引っさげて登場し、時代の寵児にまで上り詰めた高橋名人の言葉だ。しかし、この標語ほど、誤謬とともに流布されているものも少ない。
一般的な解釈とは以下のようなものだ。ゲームをしすぎるのはよくない、一日一時間「未満」に抑えなさい。まさにこの優等生的解釈によって、この標語は子どもたちのみならず、ゲームにはまる子どもに懐疑的だった母親連にも受け入れられた。実際、ゲームプレイが一日一時間までと制限された家庭も多かったと聞くにおよび、どれほど高橋名人の言葉が重みをもって受け取られたかがわかるというものだ。
だが、本当にその消極的な教育的意味が、この標語の持つ真の意味足りえるのだろうか。
考えてみるといい。スポーツにせよ芸術にせよ、技術を伴う営為は苛烈に自らの伎倆を磨くことを要求する。ピアニストなどは、一日弾くのを休むと三日から一週間の後れを取るとまでいうではないか。ゆえに彼らは一日に数時間、プロともなると五時間や六時間はざらという、それだけの時間を練習に費やしている。
ゲームにおいてもそれは同じはず。となれば、ゲーム界のトップエリートである高橋名人が、後進に対して、練習時間を削減せよとなどいうはずがありえるだろうか。
ピアニスト、シプリアン・カツァリスはいう。時間は削れるところから削れと。まずは食事時間、そして睡眠時間。
われわれもそうでなければならない。目標に対して妥協することは許されない。プロを目指すわけではないといえ、アマチュアだから手を抜いてかまわないという法もないのだ。
高橋名人の言葉を守ろう。ゲームは一日「最低」一時間。それだけの時間を割かねば、豊かなゲーム生活を送ることなどかなわない。
名人がわれわれに残してくれた、金言である。