ゲームは一日一時間(初期形)

 ちょっと資料集めをと思って、Googleで「ゲームは一日一時間」をキーにして検索してみたら、出てくる出てくる。大体四百件くらい出てしまいました。

 かなり古い標語ですが、かなりの人があの人のカリスマと標語のインパクト、語呂、そしてゲームにはまる子どもにたいし懐疑的だった母親連に支持されたせいか、現在もゲームキッズ(死語やな)の脳裏のどこかに焼き付けられた、永遠の輝きを放つ名言として、受け継がれているということを実感しました。

 今回の情報収集の収穫としては、名人の言わんとしたことは「集中力はもって一時間である」ということであるという説や、当時実際に一時間を守っていた人が多いということ(僕は守らなかった)、社会人になって一日一時間を守れないという同志たちの存在、そして自分の頁が結構上位にランクされていたという、衝撃の事実でしょう(一頁目に出てきた)。

 今の子どもたちを取り巻くゲーム事情は、僕にはもうわからないくらいまで遠い世界になりました。どなたか、幼稚園、小学生、中学生、高校生、大学生のお子さんを持つ人がいたら、教えてください。高校生くらいになるとさすがに大学生、そして自分につながってくる部分が多いのでわかろうものですが、それより若い年代ともなると、もう生物としてかなり違っているので、わかりません。小学生? は、なにそれ!? って感じでしょうか。

 ただ、行きつけのゲーム屋に、結構早い時間に行くと、小学生たちがたむろしていて、話題は遊戯王カードだったりして、彼らの中ではゲームというのがビデオゲームだけではなく、カードゲームというのも重要な範疇なんだろうなと実感させてくれます。また、彼らに向けて売られるゲームも、遊戯王であったり任天堂ならポケモンであったりといったような、メディアに大きく取り上げられているものなんでしょう。僕は絶対に手を出さないといった感じのゲームであります。

 遊戯王もポケモンも、子どもたちに人気の携帯ゲーム機を中心に普及したものと思うのですが、どちらも交換という要素が重要になっています。つまりはコミュニケーションというものを内包しているわけで、ゲームは昔も今も重要なコミュニケーションツールになってるんだなあ、と。昔、自分が子どもだったころに交換したのはもっぱら情報だったものが、現在ではゲームに敷衍する情報に加えてゲーム内情報も交換可能になってるんだな、とちょっとうらやましいね。カードという物理的な情報のやり取りもしているわけでしょう?

 こうしてみると子どものコミュニケーションは、表面的なスタイルは変わりながらも、内実は変わっていません。当然ですよ。人間は思ったほど変わりも成長もしません。

 僕の子ども時代にはキンニクマン消しゴムだったりしたものが遊戯王カードになって、マリオがポケモンになっただけ。機能はそのままに、形態がシフトしたのでしょう。ただ確実に変わってるものもあって、ある意味暗い部分をどこかに孕んでいたゲーム、アニメといったサブカルチャーは、どこか健全に薄っぺらい大量生産品としての顔をして、「暗い部分」を持つものはその暗いものが前面に出た、暗いものゲー、暗いものアニメとして、やっぱり健全なんです。

 僕はその辺がつまらないと思う。「暗い部分」というのは、一種健全な顔をしたものの中に潜んでいるから光るのであって、あからさまな狂気よりも普通の生活の中に紛れ込んだ狂気こそが怖く魅力的であるように、それだけが抽出分離されたものはやっぱり見せかけに過ぎないんです。ふりをしているだけで実は健全な狂気なんてものに僕は惹かれません。


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公開日:2001.05.18
最終更新日:2001.08.29
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