字を書いている。始めたのは一年前、書家の石川九楊の『二重言語国家・日本』を読んで、その書字から日本文化を読み解くという主張を理解したいと思ったため、というのが理由だと自分でも思っていた。
ちっともうまくならないのは、特に最近はちっとも身を入れて書くことのないため、うまくならないのも当然だった。
でもまだ書いている、そして先日ふと書字をしていて思い出したことがある。
「考えれば、字を書きたいと思ったのは石川九楊のためではなかった」
彼の理論に、彼の前提を知ることによって、近づきたいと思ったのは嘘ではない。しかしそれは第一の理由ではなかった。
天羽碧。その名を今、当時と同じように思い出したことが今回の気付きの初めであった。
手を伸ばしても声もて呼べど届かぬ存在、それが天羽碧である。所詮は虚構であり、血や肉を持つ存在であるものが決定的に近づくことの出来ない位置にあるもの、それが彼女らである。観念の領域に存在する彼女らに近づくことが出来ないがため、想いはなおも募るのであるが、それらは決して充足も解決もせずわだかまっていくばかりだ。
それゆえに彼女の名を呼びたいと思った。声ではなく、身体ではなく、それらから離れたより観念に近く身体につながる手段――文字にて彼女の名を呼ばんと、そう到ったのは僕にはまるで必然だった。
去年の中国語のノートには、彼女の名前が様々に連ねられている。それは消えてなくなる言葉ではなく、読まれるたびに甦り再び生きようとする、彼女らの生に相応しい、言葉の有り様だ。
天羽、これが僕の愛、これが僕の心臓の音。この一点一画のすべてが僕の愛。
そう思い書いた二年目の書字は、少しでも彼女に届いたろうか。