幸せについて、

 今まで、僕は幸せについて、それは心の持ちようだと言ってきたように思う、不幸せとは幸せに気付かぬ状態、ならば幸せと思い込むことは本当に幸せといえるのだろうか。これまで言ってきた幸せは、いわゆる世間でいうところの――流行っていた――プラス思考というものに近いものととらえてよいだろう、しかしなにごとをもプラスに、良いようにとらえ続けることは、すなわちプラス、善、幸せにいたる方策なのであろうか。僕は、幸せは云々というたびに、幸せと思う心が、などというたびに、心のどこかに澱の生ずるを感じていたように思う、ただそれを意識せぬようにつとめていた、無意識のうちにおいやっていた。最近臆面もなく詩など書くことがあるが、先日書いたものは、まさにその反照であった。スキージャンプの原田くんの明るさは内面の不安を隠すためのものだということを言った、それと同様に、幸せ、幸せと連呼するのは、内心幸せでないということに気付き、それを隠そうとするにすぎないのではないか。

 ならば、幸せとは一体どういうものを指すのだろうか、ショーペンハウアーが言うには、幸せ、善、満足とは意思の障碍のとりのぞかれ、苦痛が熄んでいる状態にすぎないのだそうだ、しかし、本当に幸せというのは、そのような消極的なものなのだろうか。幸せとは、本来、より積極的意味を持つものであるだろう、考えてみるに我々が幸せと感じている時は、物質的なものからは解放された、精神的充足の内に存ると感じる時だろう、あらゆる日常的意味や束縛、苦痛とは無縁であるように感じられ、わたくしがまさにわたくしであると思える、そのことが、幸せの本質であると思うのだ。そこでは現実と非現実――想が同定され、わたくしと世界が同一である。

 これを踏まえて言うなら、苦痛、障碍は、幸せと同居可能といい得るのではないだろうか、苦痛というマイナスを超えて在り得る幸せもあるはずに思えるのだ、むしろマイナスの要素のあることを見ずして、苦痛のあるを隠し抑圧して、幸せということがすでに不幸せの証左であるのではないか、さらに加えていうならば、幸せである時は幸せと感じることはなく、ただわたくしの充足だけがあり、幸せと口にする時こそは、その幸せの消え行くに不安を兆したというあらわれである。幸せとは超然の一つの現象した姿である、ならばそこには概念に、言葉により定立される必要など、有るはずもないのだ。

 詩は二月十六日に書かれた、「NK細胞」記事は十六日、「森田療法」は十七日のもので、今日見つけた。「経口トレランス」は今日のものだ。今日の手紙の内容は森田療法に影響されてのことかもしれない、しかし幸せの矛盾のすでにあったことは明らかだ、我々は矛盾を抱えて生きている。

平成十年二月十八日(水)


今日、帰り、たまさかに出会った盲の人と話をした、

 今日、帰り、たまさかに出会った盲の人と話をした、すると、話の流れから偶然に、大学の盲の友人と知り合いであるという、げに世の中とはせまきものなり、縁とは恐ろしい恐ろしい。こうして知り合いのつながりが増えるのは面白いものだ。ただ矛盾もやはりあったりする、縁は憎々しげでもある。

平成十年二月十八日(水)


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公開日:1998.05.04
最終更新日:2001.09.02
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