禅の坊様

 先日まちなかでふと耳にとめたうたがわすれられず、探していた、そのうたはKiroroの『長い間』といううたと昨夜知った、素朴な良さ、伝えたい言葉があるうたなのだ。今日の午前中『長い間』を買いにいった、その行きしなに禅の僧侶を左に見た。求めたものはすぐに見付かった、そのまま他の売り場も見、クープランの『ルソン・ド・テネブル』、エレミアの哀歌、とリストの『レ・プレリュード』――人生は死への前奏曲に他ならない、を買った。その帰りに件の禅の坊様に声を掛けた、彼れは外国の人だった。外国の方なんですねこの問い掛けにでもあなたが生れる以前から日本にいると思いますよとの応えを得た、実は外国の方だから話し掛けたわけじゃないんです――禅では世界との融和というようなことをいう、世界と一体となるという、それが悟りというのかと問えば、それこそが無であるという、我々の分別というものが二分するもの、有るとか無いとか、を超えるものが無だという、ならば、我々が居るということはどう説明されるのかと問う、その居る居ないということが我々の分別によるところだと、無という言葉は無いということではないと、無が有り、それは有りつづけ、それを我々は居るとか居ないとか分けていると、その二分を超えて無が有ると、ならば悟るとはその無ということを得ることかと問えば、そうではない、それはもう有る、気付けばよい、目覚めることが悟りだと――

 礼をいって別れて、考えて、思った。我々は広い大地に区画を定め、分けることをして、某々の土地であるように考えるが、そのことは元の広いフィールドを見えなくしてしまっている、それに無と有無の二分の関係は似ているのではないだろうか。坊様に外国人であるを問うた時、彼れは異なる文化の者に対する差別をわたしの中に見たかもしれない、なぜ日本人でないお前が禅をという。しかし我々日本人は、なぜ日本人のお前が西洋音楽をと問われる。その二つの問いは、外人のお前に我々の文化がわかるのか、という問いなのだ。文化は西洋の culture を移入した新しい概念で、地を切り開くということに根ざしている言葉だ。自然を分け、人の知によって作りあげられるものそれが文化だ。文化はあらゆるものを区分し差別し、分化する作用である。その分化を強いる作用が、先の問いを産ませるのだ。我々は文化の種を得たその時より、今の今までその文化を育て、世を分けに分けてきた。それは、無をおおいかくし、結果悟りを遠ざけることではないだろうか。そのように考えてみて、禅に傾倒したアメリカの作曲家ジョン・ケージが『4分33秒』で試みた演奏されない音楽は、その分化から脱け無へ至ろうとする努力だったのではなかろうかと、分かった気がしたのだ。

 我々の分別は、無から二物を分けてしまう、だから無を分かるといわないのだろう、悟るしか我々には手がないのだろう。人生は死への前奏曲などではない、人生は死の内にあり人生は死を内包しているのだ。

平成十年三月四日(水)


春は晴れの三日と続かないという、

 春は晴れの三日と続かないという、今日も雨が降った。何故か疲弊している、写真を見に行った先で、休みやすみに、思わず寝入ってしまった。昨日の坊様には逢えなかった、携帯電話の男が居た、鳩がずぶ濡れて惚けていた。

平成十年三月五日(木)


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公開日:1998.05.04
最終更新日:2001.09.02
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