昨夜、漱石の『思い出す事など』を読み終えた、『夢十夜』の一冊を終え、何を置いても読みたいと、文字通り買いに走ったのだった、それほど長い文でも込み入ってややこしい文でもない、だが一週間弱程かけてしまった。この本は、漱石が大患の最中に起ったこと、考え、思ったことをつづったものである、短い文のつながりが、たんたんと連なり、他の文章以上に緩やかに動く感情である。そして切なくさせるのだ。
すべての出来事は行き過ぎていくものだということは分かっているのに、それが無闇に切ないと感じられる時がある。夜、窓辺で漱石を終えた時その思いに到り、その帰り夜道、昔の思い出の沢山あることに気が付いた、それは高校の時分、通い、そして部活の先輩や同輩達と、つるんだ界隈であったのだ。その往時はなんということもなく無感慨に過ごした、それほどに瑣末な取るに足らぬことごとであった、あった筈なのだが、それが今にこうして胸に兆そうとは思う由もなかった。
人は何故に思いを残すのだろう、また留めるのだろう、思い出が多いほど切なさは増してゆくではないか、思い出がきらきらと輝くほどに感傷はつのるではないか。
辛かったこと、楽しかったこと、苦しんだこと、面白かったこと、悲しかったこと、悩んだこと、それらが深ければ深いほど、思い出の輝きは増し、心を過去へ向かわせ、胸に切なさを残すのだ。過ぎ去ったもののいとおしさが、今をこうして辛くする。
死ぬよりも生きるほうが、ずっと辛く切ない、すべてを置き去ることの否定である生は、新たな切なさを産み出しながら、これからも、死ぬその時迄続いてゆく、また失ってしまったもののまだ何処かに続くを思うそのことが、辛い想いをことさらに刺激するのだ。死はすべてから脱却し、捨て去ることに他ならない、その代償を支払い、我々は辛い切なさから解放される。しかし新たな生成は望めない。
生きることは切なさを求めることだと思う。生きている限り切なさからは逃れられない、しかしその切なさを愛おしく感じる程、現在に対してもそして未来をも愛おしむことが出来るだろう。我々は切なさの中に生き、切なさの内に己れを抱き、切なさから次なるものを産むのだ。そして切なさを共に死ぬのだろう。
平成十年三月七日(土)