恋をしている人間は幸いである、とにかくなにかひとつでも、愛して已まないものを持っている人間は幸いだ、と思えてしかたありません。というのも、実はわたくし、どうにもこうにもこれだけは愛さずにはおられないといえるほどに、焦がれるものがないのです。
好きなものがなにもないのか? と問われてなにもないわけでもないのですが、とにかく僕にとって、興味というものは広範に渡って発揮されているものであり、ことごとく僕の興味対象は、相対的な価値に支えられているに過ぎないのです。
僕はたくさんのことを同時進行しています。このサイトのインデックスページから見回してもらうと、僕の興味の広がりが分かっていただけると思います。本が好き、音楽が好き、ゲームも占いもする、フランス語の勉強も、とにかくたくさんのことをしています。これで得られることもあるのです。けれど、この興味の広がりのせいで失っているものも数多いはずです。
人間の時間は有限です。そのかぎりある時間をたくさんある興味に均等に配分していくと、ほとんどなにも出来なくなります。もしなにかひとつことに集中して時間と労力を費やすことが出来たらば、きっと今以上に得られるものもあるはず。今は乗り越えられないものも、乗り越えていけるかも知れません。
けれど、その絞るということが出来ない。例えば、音楽に興味を向けようとすると、そのせいで他のものを捨てていかなければなりません。例えばゲーム、例えば本。自分が求めたいと思っているものに達しようと思えば、人生の時間のほとんどすべてを振り向けてやらなければならない、だけどそのためにいろいろな興味を振り捨ててしまったら、自分ではいられなくなってしまう、そういう気がして、音楽で口を糊する人生はあきらめたのでした。
そういうわけでずるずるだらだらと人生を過ごしております。でもこれじゃいけないよなあ、と最近とみに思うようになってきました。
ともかく、なにかに一生懸命に取り組んでみる、ということを今やっておかなければ、これから先もうなにかに打ち込むというチャンスはなくなっていくような気がして仕方がないのです。だけれど、それこそ無理に好きになったりするのもおかしな話で、自分の中になにかを好きになるという気持ちが降り積もるのを待つしかないのがもどかしい、しかもそれが積もるかどうかは分からないのです。
とかいっている僕ですが、かつては僕も、もてる時間のほとんどを費やそうとしたこともあったのです。一年間、そのことに打ち込んで、結局結果は出ませんでした。その後、大学に入り時間がそのことばかりに振り向けられなくなって、中座したままで今に至っています。
それを、当時の熱狂のままに続けていてもきっと結果は出なかったでしょう。むしろ、今醒めた目で遠くから見やることが出来るようになって、ようやく少しだけ分かるようになってきました。今再開したらば、当時よりよいものを作ることが出来る。
だけれど、その打ち込むだけの勢いがない、活力がありません。というのは、なにをおいてもそれが好きだ、というほどに心が動かないからにほかなりません。
なにかを好きになる、愛するという気持ちは、心身に活力を与えるものです。対象が人間であっても事象であっても、そのことには代わりがありません。前進すること、発想することを後押しし、挫けそうになった時には支えてくれます。感性は鋭くなり、細やかなことに心を砕き、対話することが可能となります。
そんないい恋をしてみたいものだと、思いませんか? ねえ、