僕は学校が嫌いだった。なにが嫌だったといっても、ひとつところに押し込められる息苦しさが、とにかくたまらなかった。それでも僕が高校にまでこぎつけたのは、高卒の学歴の持つメリットを、自分を殺してでも学校に行くことの苦痛と天秤にかけることの出来る、打算的思考が出来る人間だったからだ。そうでなければ――もっと僕が素直で純粋だったら、きっと学校を出ることは難しかったろうと思う。
小中学校は、義務教育のもつ甘さにつけこんで、出たり休んだりを繰り返していた。出席日数ぎりぎりを狙って、数週に数日のペースで自主的に休みをとっていた。それは仮病のときも本当に具合の悪い場合もあって、実のところ自分でもどちらがどちらのケースだったか判別しないこともあった。
文部省は、傷病等の理由によらず「学校ぎらい」を理由に年間五十日以上欠席した児童生徒を登校拒否児童と位置づけている。1980年ころから増加し始めた彼らは、97年では小学生で一万人を、中学生では七万人を超えている。
僕は、最低卒業はするつもりだったので、年間五十日も欠席しなかったが、いわば二軍選手として登録されていたわけだ。チャンスがあれば、きっと僕は一軍にも上がれただろう。
こういう学校にいけない子らを以前は問題児童として扱い、子どもの甘え、わがままが原因としてきたわけだが、最近では学校が嫌いな子らに対する理解も、わずかずつであるが進んでいる。
学校ぎらいの子らは、学校が嫌いだからただ学校を休むのではない。学校には行くべきだと思い学校に行こうとしても、どうしても学校に行けずに苦しんでいる子らの存在も世間に知られ、彼らを理解しようとする気運も高まっている。
ところが、現首相の私的諮問機関「教育改革国民会議」の報告はどこか危うさを感じさせる。物質的豊かさや戦後教育の結果、子どもらから、苦しみに耐え自身で考える力が失われたするこの論調は、戦後民主主義や子ども中心主義の教育が日本を駄目にしたという、「プロ教師の会」の論調に酷似しているように思われたからだ。
「プロ教師の会」による「ザ・中学教師」シリーズでは、もはや理解不能な存在になってしまった子どもや親のありさまを喧伝し、それらは子どもの自主性や個人主義を重んずる戦後民主主義教育の末路であると説く。それは巧みに、利己主義(エゴイズム)と個人主義(インディビジュアリズム)をすり替えた論であることは、僕が大学で教職課程をとっていた際に、実に思い知らされた。
その、戦後教育を否定する態度が現首相においても顕著であることは、一連の神の国発言や教育勅語礼賛によっても明らかだ。その首相の私的諮問機関である「教育改革国民会議」が多分に同様の傾向をはらむことは当然といえる。
「教育改革国民会議」の、子どもが「苦しみに耐える力、自身で考える力を失った」とする分析はある面正しいと思われる。確かに、我慢や自制の効かない人間が増えているということは実感と感じられるからだ。だが、こういった傾向に対し、「甘えるな」などのスローガンを各家庭で定めることを提案するというのは、一体どういう意図であろうか。
この論が、先ほどの学校ぎらいの子らを一律に捉え、彼らの学校に行けないことを「苦しみに耐える力」を失った彼らの「甘え」として片づけるきっかけになりかねないとの危惧がある。上述のように、学校に行こうと思うが行けない自分を責め続けている子だって、少なからず存在しているのだ。そういう子らに対し、彼らの葛藤や苦悩を受け止めることもなく、それが彼らの甘えであるとするとき、自分が誰からも必要とされないと思い、自身でさえも自分自身を受け入れることが出来ずにいる彼らを、さらにつきはなし見捨てる結果を生みださないだろうか。
学校の持つ個人を集団に帰属させようとする圧力に耐ええず、相いれない子らにとって、恐らく過酷な場となるだろう「強制的」な奉仕(ボランティア)活動。「自身で考える力を失った」子らを問題としながらも、強制によって動かすことは矛盾ではないのだろうか。
自分は、このような全体主義的傾向に対し、非常な心配を覚える。
同諮問機関のいう、「極めて個性的な子どもには、特別な配慮がなされるようにする」という言葉が、学校に馴染めない彼らを含めた「個性的」な子らを排除するものではなく、彼らにとってより良い教育や場を選択、提供することのできる機会を与えうるような、ほかならぬ彼らに対しての「配慮」を約束するものであって欲しいと、「極めて個性的」な僕は願って已まない。
「時事トピックス教育編」『教職課程』2000年10月号 東京:共同出版,6-7頁。
大前多恵「不登校を生きる二重の苦しみ――14歳の少女の心を見つめて」『学校運営研究』2000年10月号 東京:明治図書,68-69頁。