時代劇を見るたびに思う。これが大衆の求めるものかと。
権力を欲しいままに結託する領主、代官、奉行、大商人に虐げられる庶民。これは時代劇に綿々と存在する人気ある一形式である。というのも、大衆は、権力を持たずいつも搾取される側であることを権利として要求し、その権利を抵当に権力や大資本を敵に回すことを常とするからだ。
もはや大衆も庶民も解体を余儀なくされ、はるか過去のものとなった現代の日本であるが、それでも自らを大衆と信じる彼らは、大衆としての当然の権利を主張し、権力に対しくだを巻くことを生き甲斐とする。官僚、代議士の汚職、警察の不祥事、大資本、企業の失態を見ては、彼らは鬼の首を取ったかのごとく狂喜乱舞する。また良き消費者である彼らのために、マス(大衆)コミュニケーションはニュースソースを提供し、さらに協力的生産者である権力行使者はせっせと新しい商品を問屋に卸してくれるのだ。
大衆は、潜在的に権力に虐げられ搾取される自分を、被虐趣味的に享受している。それはいつの日か、敵討ち代行業であるマスコミュニケーション――ワイドショー、によってはらされるだろうにっくき仇の末路を、心から歓喜するための布石なのだ。
これこそが、愛すべき時代劇の一大定型を支えている。
舞台は下町或いは農村、細々と日々の仕合せを噛みしめる善良な庶民に突如降りかかる理不尽。その理不尽の影には、私利私欲を追及する大商人とそれに癒着する権力がある。しかし立ち向かう力も牙も持ちあわせぬ庶民は、結局権力のいうがまま。逆らいもせず、そういう気さえも起こさない。そこに我々もまた庶民となって、金権権力への憎しみを募らせるのだ。
味方するのは唯一、我々庶民に身をやつした好々爺、または気のいい渡世人。されど事態は好転の兆しさえ見せない。いまだ力を弱めることなく、権力は飽くなき欲の手綱を緩めず、金権権力の策謀が今にも庶民の身にその毒牙でもって掴みかかろうとするその時、現れたるや我らが正義の味方。待ってましたと大喝采。
こうして、腐敗する権力は懲らしめられて、一件落着の次第。こうして我々は日常の溜飲を下げるのだ。
どこかおかしくはないだろうか。結局庶民は耐え忍び、いずれ現れる、身内のふりをした正義の味方を待つばかりなるものなのか。そして、棚から牡丹餅の勝利に拍手喝采するほかないのだろうか。
しかも、その牡丹餅は、敵対する権力をさらに統べる、最上位の権力者の道楽によってもたらされたものにほかならないのだ。
ここには奇妙な構図が存在する。我々を搾取する下位権力と、その権力を統べ裁く、我々庶民の味方である上位権力の、二重権力構造である。
我々は、日々我々と相対する権力には不信と憎しみの目を向けながらも、それを超克するすべなしとあきらめムードに沈みながら愚痴にまみれ、権力に毒づきながらはるか遠くの権力の助けを待ち続けている、不健全の大衆なのだ。
寺山修司は正義に寄せたエッセーで以下のように述べる。
政治的に弱体な時代にあっては、大衆は「もう一つの正義」「もう一つの法」を要求するのだが、そのこと自体がすでに管理と支配について無条件に受身である大衆のみにくさの反映であるともいえないだろうか?
また寺山は「大衆は、自分たちで法と正義の検証などにふみこむことをせず、あらかじめできあがっているそれを守るために月光仮面を働かせる」と断ずるが、ならばお仕着せの法と正義を検証することも守ることもせず、ただただ法と権力の象徴たる最高権力者の登場を待ち続けるばかりの我々は、いかほどのものだろうか。
今や個も持たず、権力のもとに組み敷かれるばかりの我々大衆。
お願いだから、私ばかりは我々から除外して欲しい。