夏過ぎてため息が多くなった。なにかをする度ごとにため息をついている。疲れているのかと思う。
生活が楽しくないわけではないのだ。日々好き勝手に生きているし、夏の間は、安定はしないものの、自由な時間がいくらでももてたので、日頃のやり残しをあらかた始末することも出来たし、同年代のものと較べても勝手気ままな暮らしを謳歌している。
でも、ため息は止まない。
最近ふと思案してしまうことが多くなった。なんでもないことが気にかかったかのように、宙を見てなにかを思案している。なにか具体的に考えることがあるわけではない。そして、ため息をつく自分に気づく。
最近心の動くことが少ない。全く動かないわけではなく、本や映画、ゲームをしていて感極まることもないではなく、心に一滴の水も残っていないわけではない。それでも、なにかしら置き忘れたものが気にかかって、その置き忘れたものがなにかは思い出せないままに、心は褪せていく一方だ。
以前、今から八年ほど前だろうか、中学高校とよくしてくれた先輩を失ったことがある。その時喪失感がなかったわけではないが、その死を受け止めることが出来ず、正直なにも思わなかった。まわりのものは多かれ少なかれ驚きの感情や悲しみの感情をあらわにし、泣き崩れる人もいて、自分たちだけが取り残されている感覚を持った。
彼の死を同学年の部員に知らせるときに、自分と同様の感覚、反応を持ったものがふたりいたのだ。そのうちの彼女がいった、「私は人間のどこかが壊れているんじゃないかと思う」という言葉をいまだ忘れずにいる。
自分の、人間としてのどこかが壊れている、そのことが今も自分を捕えている。それでも自分は人として足りない部分を取り戻したい――それは最初からなかったのかもしれないが――と思ってはいるのだ。けれど、それはどこにあるのか。どうすればいいのか。わからずにいる。
そうして煩悶するうちに、まわりはさらに変わっていって、その「壊れている」彼女は昨年結婚してしまったと、人伝えに聞いた。なんだ、どこも壊れてなんかいないじゃないか。とそう思い、裏切られた気分がしたものだったが、それは恐らく感傷だろう。
しかし当時の知り合いがどんどん、人としての普通の歳の取り方をしているのを見て、やはり自分は取り残されている感覚を覚える。そして、今は自分と同様のものはいない。
自分とて人間的な心は持っていると思うし、人として基本的な欲求がないわけでもない。それを強く求める意欲がないのは、自分に対しての逃げだということはよくわかっているのだ。寂しさと虚しさと疑いに胸を狂わせながらも、こうして誰にもとどかない言葉をつむいでいる。
「言と音は受け取る誰かがいなければ、なんの意味も与えられない、ただの空虚な響きにすぎない」というのは、このWebページのポリシーだが、そういっている言葉自体が空語に過ぎないというのが胸をしめつける。
それでも、いつかどこかに届くかもしれないと、言葉をすることを続けている。
ため息を止めようと、思っている。