占いの初日が終わりました。お客さんの入りは昨年、一昨年に比べ少なめだったものの、昼食が夕方になったというところから見ても、結構はやっていたのでしょう。持ち込まれる問い掛けは例年に較べても恋愛関係が多かった、というかそれ以外がむしろほとんど見られなかったという感じ。恋せよ乙女といったところでしょうか。
しかし、占いというのは人気があります。もともと女の子の多い大学ということもあるのか、それとも競合他社が存在しないためなのか、例年結構なにぎわいを見せます。というのも、人間の根本に、予測できない未来を予測したい、垣間見たいという欲求があるため、人は占いに心引かれるのでしょう。
ところが問題があります。本当に占いというのは当たるのだろうか、ということ。当たるも八卦、当たらぬも八卦といいますが、やってみると結構近似的に当たるような気がするのが不思議なのです。
一昨年ことです。占い屋に来た知りあいに、軽い気持ちでワンオラクルをやってみました。ワンオラクルというのは、カードの山のなかから一枚だけを引いて、それで占うというものです。その後、普通のスプレッドで占うと、現状を表す位置に現れた一枚が、先ほどのワンオラクルの一枚とまったく同じカード、正逆も同じで出てきたのには驚きました。こういうこともあるんだねえ、と感心しあった覚えがあります。
この例は、確かに希有な例で一般化することの出来ないものでしょう。ですが、同じ人を複数回占っても、まったく違う相が現れるというのは少ない、むしろ似通った、同様のカードが出てくるのです。
カードが繰れてないのかと思い、シャッフルしてから表を向けてカードを何度か広げてみたことがあります。すると、思っていた以上に奇麗にばらばらになって、繰れているのです。
これからいうことは牽強付会に過ぎる、ただの印象だということを忘れないで下さい。でも、僕にはこの同じようなものが引かれてしまう占いというものに、理屈を越えたものがあるような気がして仕方がないのです。同じ人が、何度かに渡るリーディングのその毎に同じカードを、同じ位置に引いてくる。これは、もうその人の引くものというのが最初から決まっている、というようにしか思えない瞬間があるのです。
と考えれば、タロットというものも、偶然ってなものじゃないのかもなあ、と思えるので不思議です。タロットには、いろいろな象徴を持ったカードが幾重にもわたって折り込まれています。それを引くという行為と、実際の人生においていろいろな実相を引くことは、同じなのではないかと思ったりするのです。つまり、人生の実相の代わりに、それらを暗示するカードを引く。人生のシミュレーションとして、タロットは機能するのではないか、と考えるのです。
とはいえ、僕は占いに対して懐疑的です。サンプリング数を多くすれば、すべてのカードがまんべんなく出てくるはずで、どれかのカードが特別に多く出てくるということはなくなるでしょう。そういう点において、上で僕がいっていることがロマンティックに過ぎる感傷だということは分かっています。
でも、そういう感傷に過ぎないものとしても、人は占いというものにまだ見ぬ未来を見て、ドキドキしてみたり、安堵の息をついたりします。これが実効性を持たないものだと思っていても、それでも無関心でいられないところが人間の弱さであり、人間の愛らしさだと思うのです。
偶然の出会いに必然を見出す。きっとこれは人間のさがなんだろうなと思います。