今日、演奏会で気になる音がひとつあった。その音自体は非常に小さいものなのだが、それでも耳について仕方がなかったのは、ひとえにその音が持つ周期性のためだった。
その音とは、腕時計のかちかちという音だ。
音楽が持つテンポに対し、あくまで自分のテンポを固辞し続ける時計は、演奏会場では邪魔なもの以外ではない。客が演奏中にする咳はまったく気にも留まらないのに、時計はいけなかった。音楽の命である、テンポに逆らって存在する。
しかし、そのあらゆる自然のテンポに逆らうという性質が、時計の持つ価値の中でも最上のものである。自然界のテンポというのはその時々で変わり、昼のテンポ、夜のテンポは違い、また冬と夏のそれも異なっている。しかし時計は、状況の変化、推移に関わらず、独自のテンポを刻み続ける。
時計のテンポというのは社会のテンポだ。ある意味、文明のテンポであるといえるだろう。文明或いは社会の中で、複数の人間がかかわり合いながら生活しようというとき、時間という尺度がなければなにをするのもままならない。
仕事の開始から、バス、電車の発着、待ち合わせなど、時間はわれわれの社会生活に深く関わり、われわれの社会を律する共通のテンポとなっている。
だが、今日の演奏会での時計のかちかちと刻むテンポは、その場にあってはならないテンポでしかなかった。それは、音楽の場が一般社会から切り離された特別な機会であるということでもあるだろう。
しかし、だというのならば、一般社会とは離れて存在しうるわれわれの私的な時間における、時計のテンポというのは、今日の演奏会での体験と同様に、われわれを疎外しうるものとなりうるものではないだろうか。
人は、それぞれ固有のテンポを持って生きている。根源は心臓の鼓動でもあり、また独自の生活のリズム、生き方のテンポでもある。ある人にとっては自然なテンポが、またある人にとっては遅く感じられたり速く感じられたりする。
これなんかは、人のテンポというのが、社会というものから基本的に切り離された、非常に私的なものにほかならないからではないだろうか。
けれど、われわれは自分の私的な時間でさえも、時計の秒刻みのテンポに支配されようとしている。それはテレビ番組のスケジュールに合わされた生活であったり、規律正しい生活といわれるある種の価値であったりする。
そういう他律的時間に束縛される生き方というのは、人にとって仕合せな時間といえるのだろうか。
僕も昔は、そういう時間に縛られていて、自分自身ががんじがらめだった。身動きもままならないような、音高く刻まれる秒針に追われる生活だった。
けれど、僕はここ数年来時計を身に帯びたことがない。少しでも自分を縛るものを減らし、自由でありたいというためなのだろうか。
普通の社会生活を送るには不便なこともあるが、意外と支障は出ないものだ。少なくとも、自分の時間を送るときには、秒針の身を刻むようなかちかちから逃れていたいと思っている。
だって、そうあってこそはじめて、自分の時間といえるのだもの。