京都市をあげての芸術イベント「芸術祭典・京」も第十一回目を数え、面白いイベントに目のない自分としては、今年も興味津々で参加イベントをピックアップ。それが、この「アルレッキーノと太郎冠者」のシリーズです。
太郎冠者といえば、狂言のシテの代表格としてご存知の方も多いでしょう。ではアルレッキーノというのはなにか。アルレッキーノというのは、イタリアの古典喜劇、コンメディア・デラルテに滑稽味を帯びて登場する、貧しい召使いの役のことです。英語ではハーレクイン、フランス語ではアルルカンといって、こちらの名前で知っている人もいるかと思います。
本日の公演は、京都は御室、仁和寺の観音堂という、大変珍しいロケーションでおこなわれました。そもそもがめったに開くことのない観音堂のその中で、狂言とイタリア古典喜劇が繰り広げられるという、実にスリリングな催しがあったものです。
狂言は、太郎冠者と銘打っていますが太郎冠者は出てこない「仏師」が演じられました。お堂を建立した田舎の信心者が、その本尊を造ってもらいに都に仏師を訪ねて出てくるという筋。ところが仏師を騙る小狡い男にだまされて、というかたちで進んでいきます。
演じられる空間は、観音堂内の二畳三畳ほどの大きさに区切られた四角い舞台。舞台といっても、客席とは竹が分けるだけの、ひとつながりの座敷です。手を伸ばせば届こうというほどの近さで演じられる狂言は、実にダイナミックで、所作、表情が逐一語りかけ、滑稽味に緊張感までがひしひしと迫ります。こんなに接近して相対したこともないので、少々興奮気味でした。
狂言を見ていつも面白いと思うのは、その幕切れが明確な解決を伴わず、フェードアウトして終わるところでしょう。例えば今回の「仏師」でも、姑息な偽仏師の嘘を田舎者が見破って、逃げる偽仏師を追いかけていくところで幕切れです。別に賠償を求めるでもなく、代替手段を見出すでもなく、ただ田舎者がだまされたというそのプロセスだけが滑稽に描かれて終わり。さすがに喜劇だけあって、問題と対立を止揚せず、ほうり投げることによって軽さを生みだす。これはコンメディア・デラルテも同様。洋の東西を問わず、喜劇の本質は軽さであるのでしょう。
その軽さの中に、辛辣な人生観や批評眼が見えるところが、やはり喜劇の喜劇たるところなのでしょうか。権力を笑い、自らを笑う。見習うべきところは多そうです。
コンメディア・デラルテは、類型化された人物像が仮面で表現される仮面劇です。権力者としての金持ち、学者、軍人がその力を誇示しつつ、反面馬鹿にされた描かれ方をし、下層民も同様に、愛すべき滑稽者に描かれながら小狡く卑しいものという見方もされている。こういう多面的な人物像の描き方は、コンメディア・デラルテが軽い喜劇でありながら、内面に人生訓や世相批評、権力批判をしのばせているためでしょう。
コンメディア・デラルテでは、決まった名前の決まった人物が登場するのが常です。というわけで、仮面とそれが表す人物がどういうものなのかを説明する、短いプログラムが演じられました。
ヨーロッパと東アジアの身体と心の関係の相違が説明されるところから始まって、各仮面をかぶってのパフォーマンスに移っていきます。マルケッティ氏は片言の日本語と後はイタリア語で、高田先生の註釈を交えながら、力強く各仮面の人物を演じていきます。仮面の奥に見える目が生きていて、目を合わせるとぞくりとするほど。ああ、いまのこの瞬間、マルケッティ氏は現世を越えてプルチネッラやアルレッキーノといった別の人物に変わっているのだと、仮面と演劇が持つ魔力というものを垣間見せられました。
驚いたことは、筋もなく人物紹介に終始するかと思われたこのプログラムが、終幕には現在我々が直面する世相に対する批判を含んでいたということ。権力を監視する目を失えば、権力はその力を誇示し、別の力と対立するだろうということ。その対立の先に迎えるものは戦争にほかならず、それさえも仮面で表現して見せたのには、マルケッティ氏の役者としての表現にかける意気込みを感じさせて、恐れ入りました。
役者というのはすごい商売であると。改めて思い知り、今日は暮れたのでした。