ワークショップも二日目。昨日のような怖れからは解放された気分で、少し余裕をもって臨むことが出来ます。昨日に続き、コンメディア・デラルテの解説からスタート。今日は、マスクとそれが象徴する人格についてです。
もっとも古い歴史を持つザンニ。彼は戦争から帰還――逃げ帰ってきた、臆病で小狡い男。けれどどこか憎めない人格を持っています。自分の頭に住んでいたシラミを見つけて殺そうとするけれども、目が合ってしまったために殺せず、シラミの訴える母や家族のことに耳を貸してしまった結果、再び自分の頭にシラミを帰してしまう。そんな少し弱気なところがある男のようです。
そして、このザンニが時代を経て分化していったのがアルレッキーノとブリゲッラ。二人とも、ザンニと同様に貧しい階層のもので貪欲さ狡猾さを持っていますが、それぞれで性格が違います。
アルレッキーノはお腹が空いていても、すぐそばを飛ぶ蝶々に心引かれてしまい、せっかく見つけた食べ物を食べそこなってしまうような男です。対しブリゲッラは、食べ物に固執するばかりか、蝶々までつかまえて食べてしまうような貪欲さを見せます。
夢を追ってしまうアルレッキーノに、あくまで現実主義者であるブリゲッラ。同じ最下層民であっても、こういう性格の違いを持たせているところに、コンメディア・デラルテが、やはり西洋の対比、対照をもって物事を描こうという文化のもとに育ったものであると実感させます。
なお、茂山あきら氏の解説によれば、狂言における太郎冠者、次郎冠者は特に性格の違いがなく、むしろ固有の性格やなにかから離れた、主に対する従としての性質だけが残った人格、なのだそうです。ある意味、捨象されたすえに残った、召使いという概念そのもの、なのかも知れません。
今日の練習は、昨日よりも進んで、アルレッキーノやなんかの所作を、実際にやってみるというものでした。というか、二日目にしていきなり実践に入るとは思わなかった。
昨日のように輪になって、右回りに進んでいきます。前を進む人間との距離を一定に保ちながら、アルレッキーノやブリゲッラ、軍人のカピターノになって歩かねばならんのですが、それがまた出来やしない。それでも示された歩き方をまねているだけの時はよかった。けれど金持ちの老人のパンタローネで歩くときは、自分が老人になったときを思って歩くことが求められたので、もうまったくどうしたらよいかわからず往生しました。自分のなかから出てくるものに耳を傾けるのは、まったくの苦手なのです。
与えられたかたちをなぞるだけでは駄目で、そのものにならないとだめだという話でした。アルレッキーノの歩き方で食べ物に向かっていくのは技術で、けれどその技術を見せることは意味を持たない。意味があるのは、技術をはるかに越えて、まさに食べ物に心を奪われたアルレッキーノであることだというのです。
いや、そりゃ頭ではわかるんですよ。けれど、そりゃ技術ができるようになった人間が、はじめて達することのできる段階だよなあ。と、むかし技術不足で苦しんだ自分なんかは思ってしまいました。
コンメディア・デラルテから少し離れて、ちょっとしたパフォーマンスの試みのようなこともやりました。全員で一箇所に集まって、交差しあいながらも触れ合わないようにして動き、合図があったらもとの位置に帰る。パートナーと身体の一箇所を触れ合わせた状態で、離さないようにできるだけ自由に動く。くずおれて、指定された身体の一部(胸とか右手とか)から起き上がっていく。
これらの動作を通じて、意識でがちがちになっている動きを、意識から解き放っていこうということのようです。
けれど、意識というのは恐ろしいもので、特に、常に監視する自分に見つめ続けられているような自分のような人間には、意識から解放されてなにかをするというのは本当に難しいのです。
アルレッキーノの名乗りを上げてみるという。身振り手振りも加えながら、アルレッキーノらしく、アルレッキーノの名乗りを上げる。けれど、それがどうしても出来なかったのです。ブリゲッラにしても然り。カピターノにしても同様です。
どこかで自分を見ている自分がいて、自分が自分以外の誰かになることを許さないかのようです。身体は開こうとするのに、意識は身体を強ばらせ、結局は飛び上がれずに影が縫い付けられたかのよう。まずは意識から開かねばならないと、思い知りました。
頭の中ではなんだって出来ても、現実には難しいものです。意識は自由でありたいと思いながら、身体にとらわれている。そして、それは逆でもあるのです。
身体が考え、気付かせることもあります。実践こそが、知るということ本質。発見はいくらでもあります。あとは、どれだけ歩み寄れるかにかかっているのだと、そう思います。