ワークショップもいよいよ六日目となりました。即成のコンメディア・デラルテ役者が演ずるという、恐れ多い最終日。いやがうえにも、不安は募っていきます。
始まって最初は、例のウォーキング。パーカッションリズムに合わせて歩くというものですが、今回はマルケッティ氏からの助力はなし、自分たちで歩行のパターンを思いだしながら歩かねばなりませんでした。意外と覚えているところ、まったく覚えていなかったところもあって、弱ります。
けれど、今までどうしても出来なかったパターンが、最終日にしてようやく出来たのはよかった。悔いも残らないというものです。
ついにコンメディア・デラルテの実践です。登場人物はアルレッキーノ、ブリゲッラ、パンタローネの三人。これを、皆で演じます。
舞台の幕が開くと、アルレッキーノがやって来ます。「三日もなんにも食べてない」。空腹を抱えたアルレッキーノは、自分の頭から捉えたシラミを食べようとしますが、シラミの懇願に耳を貸してしまい、哀れに思ってシラミを再び自分の頭に戻してしまいます。
続いてはブリゲッラ。「四日もなんにも食べてない」。同じく空腹を抱えた彼は、空腹のあまり自分を食べてしまいます。つま先から始まり、ふくらはぎ、腿。あそこはよして、腸、心臓と続き、両腕まで食べた彼は、自分の口を食べようとして食べきれず倒れてしまいます。
倒れたブリゲッラに気付いて、アルレッキーノが駆け寄ると、ブリゲッラは目を覚まします。二人とも自分たちの空腹を訴えあい、お互いを哀れみあうと、そこに一枚のコインが落ちているではありませんか。コインを手にした彼らは、それで食べることの出来る食べ物を夢見、口々に言い合います。パン、サラミ、いやハムだ。タリアテッレ、スパゲティ!
と、そこに現れたパンタローネが彼らの後ろから忍び寄り、ひょいとコインをつまみあげます。「ありがとうよ、この金はわしが落としたものなんじゃ」。ひょうひょうとした去り際に、「貧乏人には金の価値なぞわからんからな」と言い残し、笑い声とともに消えるパンタローネ。
残されたアルレッキーノとブリゲッラは、自分たちの運命を受け入れて、二人侘びしく去っていくのでした。
これが、おおまかな筋です。
いつもはじめに演じることになる女性がいます。彼女は一番手に呼びだされては、神がかったような演技をするので、後になる我々はまさに戦々恐々といった様相です。彼女がアルレッキーノを、そしてほか二名がブリゲッラとパンタローネをし、一回目の試演が終わり。後のものは、プレッシャーに凍りつきます。
人のやったようにではなく、違うやり方で演じることというお達しがあるので、はじめがよいと後のものはじり貧です。しかも、自分からやると言い出さなかった付けが回って、一番最後のグループになると、いよいよ出来ることは減ってきます。前のグループを見るほどに、自分に対しての不安は増してきます。
さて、最後のグループは人数の都合が合って、四人組でした。というわけで、一人配役を増やさなければなりません。で、加えられたのがカピターノ。軍人です。
さて、誰がなんの役をやるかが問題です。マルケッティ氏が決めてくれると思いきや、自分たちでお決めなさいとのこと。ジャンケンで決めようといえば、さすがに否決されてしまい、やる気満々の役者志望氏がアルレッキーノを、紅一点の女性がブリゲッラを、となれば、昨日パンタローネをやったということもあるので、自分がカピターノをやるということで決まりました。
舞台というのはアクシデントが付き物です。最初にアルレッキーノが登場して、続いてブリゲッラ。二人の見せ場が終わったところで、コインを見つけるところで大アクシデントが発生しました。今回は、コインを奪う役がカピターノ、パンタローネの二人。つまりひとつコインを見つけてそれをカピターノに奪われ、意気消沈したところ再び見つけたコインを、またまたパンタローネに奪われるというところがおかしみとなってきます。しかし、困ったことにブリゲッラが目ざとく、コインを「二枚とも」一度に発見してしまったのです。
参りました。こうなれば、二枚とも奪わざるを得なくなります。けれども、登場したときには一枚がうまく隠されていたので、問題はうやむやに解決されて安心です。
で、二人の金に目をつけたカピターノは名乗りを上げて、金を奪いにかかります。貴様らその金はなんだ。貧乏人の貴様らのことだ、それは盗んだ金に相違あるまい。軍は貧窮に喘いでいる、戦争には金がかかるのだ。貴様ら自身が前線に消えるか、その金をおとなしく素直に渡すか、選ぶがよい!
そうして、金を巻き上げカピターノは意気揚々と去っていきます。
そして次はパンタローネの出番。これが妙に味があってよかった。よたよたと登場して、ブリゲッラの手から金とひょいつまみあげると、「ありがとよ」と一言だけ。よたよたと帰っていくのですが、それだけでは落ちがつきません。困り果てるアルレッキーノとブリゲッラを尻目に、老パンタローネはひょこひょこと去っていきますが、それじゃぼけ老人の悲哀です。
でもまあなんとかかたちになって、ようやく終わりを見ました。これはこれで面白かったけれど、舞台だったら座布団が待ったことでしょう。マルケッティ氏、心から申し訳ない。
一通りの試演が済み、マルケッティ氏によるお話がありました。
リアリズムを求める近代演劇では、そこに観客がいないかのように演じ、客席と舞台の間にある見えない壁を透して、観客は舞台上の室内を覗き見る。このような在り方が理想とされます。ですが、舞台とはコミュニケーションです。コンメディア・デラルテではこのような「第二の壁」ははなから存在せず、演者は直接観客に向かって話しかけます。たとえ、アルレッキーノがシラミに話しかけているとしても、それはシラミをだしに、観客に訴えかけているのです。
ここでコミュニケーションゲームです。皆が輪になった真ん中に一人が出て、もう一人が真ん中の彼に対して背を向けます。真ん中の一人は、身振り動作をしながらそれを表す音を付けます。それを受けて、背を向けているパートナーが同じ動作を出来るかどうか、これがゲームのあらましです。
このゲームを成功させるには、その動作に固有と思われる音を見出す必要があります。それも、相手と自分が共有する文化における動作と音を見出さねばなりません。いつも一番最初の彼女は、二番目であることが多い僕に対し、犬の遠ぼえから丸まる動作までを提示し、ほぼ成功しました。自分は腹を押さえうめく動作でもって、大成功を収めました。
この調子で、成功した人、動作に音がマッチしてなくて大失敗した人と続いてこのゲームは終わりました。
このゲームの意味は、演技や身振り手振りといった動作でもって、伝えたいことを相手にわからせるということの重要性を示すことでした。理解してもらうための努力を精一杯に示す。これは舞台上の役者にとっても同様です。
すなわち役者は、演技によって観客に理解されるべき意図を射かけるのです。そして、それを受けた観客たちも、役者にむかって矢を射返します。この繰り返しで身体中に観客から射返された矢――エネルギーを蓄え、役者は成長するといいます。そしてマルケッティ氏はそれをエネルギーといわず愛と呼びたいと。この数日の間に、多くの愛をもらうことが出来たと。
参加者として、こんなに嬉しい話もありません。
マルケッティ氏の最後のレッスンは、わたしたちの日常の生活にもおおいに関わりうる問題を提示してくれました。自分を伝えるための努力をするということは、ともすれば手前勝手な理論理屈でもって、一方通行的なコミュニケーションが横行しかねない我々の世界に、多大な疑問を投げかけます。こうして、今自分も書いている文章。ネット上を、そしてリアルな空間を駆け巡る言葉や表現。それらが果たして伝えたい相手に伝わっているのか。
人と人、人ともの、ものとものの関係性に関わる大きな授業を、六日間かけて受けることが出来たのだと、演技や動作という枠組みを越えてなお偉大なマルケッティ氏に感謝の気持ちでいっぱいになります。ということは、つまりマルケッティ氏の伝えようとしたことは、きっと我々の身に愛の矢でもって到達していたのでしょう。
願わくば、我々の射返した矢も、マルケッティやルイゼッラ・サーラ氏、茂山あきら氏、千之丞氏、そしてすべての参加者に届いて欲しいと願いつつ――
演劇の試みは、ひとまず幕を下ろすのであります。