2001年6月8日、大阪池田市で起きた刃物所持者による、小学生殺傷事件。第一報を聞いたのは、流しっぱなしにしていたFMラジオでだった。はじめは実感もなく聞きのがしていたのだが、ネットニュースで確認して思わず慄然とした。
日常とはつらくむごいもので、理不尽なことが往々に起こる場と思っていても、今回の事件は考えるごとに痛ましい。正視できず、9日朝刊はその大半を読むことも出来ず、そのまま畳んでしまった。
昔から子どもを狙った事件はあったし、決してこの数年に限って増加したという類いでもない。古来神隠しという名で覆い隠された子どもが被害者となった事件もあれば、はじめから子どもを狙った誘拐、殺害も多い。今回はそれが表立って、規模が大きかった。規模の大小を問わず、誰かが犠牲となる事件はいつでも痛ましく、身を切るようだ。
以降、学校を取り巻く風景は大きく変わるのではないだろうか。外来者に対するチェックはより厳しくなるだろうし、門扉を閉ざすことも充分にありうることだろう。容易に乗り越えることの出来ない塀も立つかも知れない。あちこちにはガードマンがいて監視する。内から見れば牢獄のようだが、それだけの守りが必要なのかも知れない。そう思わせるに充分な事件だった。
これからのこの事件に関する報道を思うと、今から憂鬱になる。おそらくは煽情的に演出されてショー化されたものがいくつも出るだろう。顔では痛ましさを装いながら、格好のニュースソースに我を忘れての狂乱ぶり。今までもそうだったし、今回もそうだろう。被害者はメディアによって、さらなる被害者にされる。他人の不幸も、興味津々の楽しみの種にする人間の、業の深さに吐き気さえする。
日常の中に飛び込んでくる、非日常的な不幸。それらにどう対処すればいいのか、そもそもどう防止すればいいのか。大人としてなにが出来るのか、なにをすべきなのか、じっくりと考えたく思う。