疲れてくると、文章が書けない。上っ面の社会性で自分の本性を隠した、突き放した、ぶった文章が書けない。書こうとすれば、決まって自分の内面を吐き出すような、そんな文章しか書けない。
内面を吐露するのは苦手だ。自分のなにをいえばいいのか。こんな自分を語って、一体なんの意味があるというのか。いや、それよりも、自分の重苦しい内面を相手に押し付けて嫌がられることに、それと理解されることを恐れている。
弱い自己肯定と、有り体にいえば自己嫌悪でいっぱいの、黒い矮小な心をさらけだすのにはなれていない。言葉にまみれて生きてきたせいで、状況のうわべを糊塗する言葉はいつしか得意で、それすらも嫌悪している。人になにかを伝えるための言葉ばかり集めても、真に伝えるべきなにかは未だ見つからず、空白の言葉を吐き続ける。言葉の軽さに嫌気がさし、自分の虚無に表情はこわばる。それだのに、自分が有意味になることに恐怖し、自分の意味を抹消したくてならないのは矛盾だ。
箱の中は空っぽなのに、箱を飾る手練だけは立派だ。昔は違った。自分の中に本当がなければ一言を紡ぐことも出来ず、作文は苦手で嫌いだった。今は、空っぽの心で美辞麗句を並べることもできる。金を取って、文章を売ったことも。期限までに頼まれた字数、分量を揃えて上がり。最低限の結果は保証。早書きのでっち上げが手っ取り早い収入に化けて、昔は得意げだった。
今の文章は違うのだろうか。厚顔無恥に文章を垂れ流していた昔と、どう違うのだろうか。心にもない文章の数々。薄っぺらに築き上げられる砂上の楼閣を振り返るとき、恥じずにはいられない。
ただの日常を綴る文がある。さして珍しくもないよくある日常に、はっとするような光を当てる。そんな文章が好きだ。隠された意味を見出す、そんな目を欲しいと切望するが、願いは叶えられず。木霊する意味に出会えぬ自分を蔑み、無意味を綴る自分を憎んでいる。