書くうちに筆先のまとまりがなくなり、線が荒く乱れるのは、道具に無理をさせているからだ。筆が持つ限界以上に荷重をかけ、筆でではなく、力で書こうとするとこうなる。いうなれば、まったくの独り相撲。よい書になるはずもなく、字は破綻する。
筆はそれぞれが、固有の癖と特性を持っている。紙面に置いたときに強く返るか、あるいはゆったりと落ちるか。運筆にそってよくついて流れるか、抗し真っ直ぐにあろうとするか。それぞれが味をもって、主張しあらがっている。紙と筆尖の間には常に緊張がみなぎって、その対立を超えたところに書の美が成ると言っていい。
筆尖と紙面の関係は、そのまま筆者と道具の関係に当てはめることが出来る。筆は常に筆自身の限界のうちに留まろうとし、筆者はその限界ぎりぎりまで筆を使いきろうと働く。だが、往々にその努力は過ぎ、その限界以上の要求に筆は応えきれず、両者の関係は一致を見ず終わる。そうならないためには、常に耳を澄まし、筆の声に耳を傾けてやらねばならない。
筆は行為に対し、常に声を発している。筆尖は擦過し、折に軋み、よく反発し、柔軟に返ろうとする。それらを指先において聴き、手でもって応え、全身の作用に還元するのが、書の運動だ。ともすれば自らの動きにかき消されようとする筆尖の鳴動に心をそばだて、一音さえも落とさず捉える心構えが求められる。それらは静謐の境涯においてしかなされ得ない。無言であり無音であり、果ては息さえも忘れた沈黙の中で繰り広げられる、真剣の勝負が一連の書芸を完成させる。
筆の声にさえ応えることが出来れば、また筆もよく要求に応えてくれる。穂は粘り、まとまり、墨もよくついて、線はいきいきと力強い。無駄に広がらず、小さくまとまりながらも四方八方に向かう活力が充ちて、小にして大なる書が生み出される。人と道具の力が頡頏し凝縮してはじめて可能なる書。故に、書き上げれば疲労もまた濃い。