酔うと、世の中が向こうから遠ざかっていくような錯覚に陥る。電車に乗っていても街を歩いていても、そこにはなにもなく、全てが自分とは関係のないずっと遠くにあるような気がしてならない。
耳にする喧騒や電車の響きも、なにに注視するわけでもなく、全てが価値の序列から解き放たれて、一様に届く。それはまるでひとつの音楽のようであり、インスタレーションであるかのようだ。
これは貴重な体験に思う。というのは、人間はいつでもなんらかの視座にたち、それをもって世の中を斟酌し、自分なりに受け入れていく。得られる部分を組みあわせ、積み上げて、自分なりの世の中を自分のうちに構築しているのだ。
しかし、酔ったときはその構築が、いつにも増していいかげんになって、日頃自分の意識していない側面とともに、いつもとは違うかたちで立ち上がってくる。それが、僕の場合は最初に言った、遥か遠くで生起し幻のように動く世の中なのだ。
日々は見て聴いていながら、あえて意識外にあるだろう人の会話が、全て同質の価値をもって自分の中に流れてくる。それはいつも以上のよそよそしさを持ちながら、どこかやさしく人を受け入れている。けれどその世の中には参加者としての自分はなく、いるのはいつも以上に冷たく研ぎ澄まされた観察者に過ぎない自分だけ。世の中の空騒ぎを遠くから観測する、寂しい視線が投げかけられているだけだ。
それゆえに、世の中が人をやさしく受け入れようとするのに答えようと、僕もやさしくあり続ける。けれど、あくまでも自分を受け入れずまた自分も受け入れない世の中に対して、今日も冷たい視線を投げかけている。人を憎むではなく世を恨むでもなく、ただ冷酷ななにも評価しようとしない、良くも悪くも醒めた目で見るばかりだ。
酔っているときはいいのに、酔いが覚めようとするときはこの冷たい視線だけが残って、気がくさくさする。飲み直すでもなく、ため息をつく。