歴史教科書採択問題に関して

 教科書の採択をめぐり、世間が少々揺れている。問題となった教科書は、扶桑社から出版された歴史及び公民教科書。戦後に主流となった自虐的歴史観を退け、国民が誇りと思える歴史記述を求める「新しい歴史教科書をつくる会」の主導でつくられたものである。

 この教科書は、思想的に偏向があり教育課程で用いるものとしては相応しくないと、数々の批判を受けている。加え、戦争に関する記述が恣意的に歪曲されているとして、中国と韓国などの諸外国からの批判もあり、外交上の問題にまで発展した経緯を持つ。これらに関しては、盛んに報道されていたこともあり、知らないものはないといっていいだろう。

 その問題の教科書が、東京都と愛媛県の教育委員会によって採用されている。この決定により、都県立の養護学校の一部で、この教科書が使われることとなる。予想されたとおり、この決定に対する反発は強く、反対過激派によるとみられる「つくる会」へのテロ行為まで発生した。

 日本においては、教科書採用の権限は教育委員会にゆだねられている。市町村立の小中学校ならば市町村教委が、都道府県によって設置される養護学校なら都道府県教委によって、教科書採用がなされることとなる。そしてこの構造は、現場の意見を反映しにくいものである、とも言えるだろう。

 これまでも市町村教委により、問題の教科書が採用されようとしたこともあったが、その度の市民団体等による反対により、その採用は見送られてきた。当教科書に問題性を見た現場や父兄の民意が、勝ち取ってきた結果である。だが、今回の東京都及び愛媛県による決定に対しては、民意の前に立つ壁も厚いようだ。

 二都県における教科書決定は、ごり押しに近いかたちで決められたといっても過言ではない。県教委は知事による任命による。すなわち、知事の一存によって教科書及び教育内容が左右されるという事態になりかねない。今回の事例は、まさにこのような方式で決した。石原都知事は「つくる会」賛同者ということを表明しており、愛媛県は政治的傾向として保守傾向を示していた。ゆえに、政治思想が教育を左右しうる危険性を、色濃くにじませている。

 とはいえ、「つくる会」教科書を支持する人たちがいることを忘れてもいけない。彼らの意見も反映されなければ、本当の公平とは言えないだろう。

 現場の教員が教科書を選べるようになればよいと思うのだが、どうだろう。せめて学校単位で、だが教員毎であることが望ましい。教員一人ひとりが、彼ら個人の判断でもって教科書を選び、教育内容をシラバスのかたちで提示する。できれば、一つの学校に複数の傾向を持った教員がいて、それぞれの趣旨趣向を凝らした授業を提示してくれれば、理想的だ。その教員を学生――子どもが選択するのだ。

 そんなことはできないという意見もあるかも知れないが、教科書の採用を自治体ではなく、学校や教員個人にゆだねている制度は、世界的に見て決して少なくない。教科書の検定すらないという国もある。教員や学校といった現場が、自由裁量にしたがって教育内容を選定していく。そこに、公権力による押し付けをではなく、自らの「良識」に従うという、成熟した市民による教育のあり方が垣間見えないだろうか。

 いみじくも愛媛県教育長が、その市民による教科書採用を示唆しうる文言を発している。彼の述べる、「検定済みの教科書で」あるから「どれを採用しても適切なものであろう」との発言は、彼ら教育委員会がではなく、われわれ市民が自由に教科書を選んだとしても、それが検定済みであるかぎり適切であることを保証する。

 教育に関する義務と責任は、国民一人ひとりしてのわれわれが担うものである。学校や教育委員会、自治体、国家は、その義務をわれわれ国民の代行として、遂行しているだけに過ぎないのだ。今回の行政主導的あり方は、本来を忘れた不遜に過ぎるものである。


参考資料及び引用文献

引用は、

の記事内に引用された、吉野内直光愛媛県教育長のコメントから。


日々思うことなど 2001年へ トップページに戻る

公開日:2001.08.09
最終更新日:2001.09.02
webmaster@kototone.jp
Creative Commons License
こととねは、クリエイティブ・コモンズ・ライセンス(表示 - 継承 2.1 日本)の下でライセンスされています。