小説家は、自分の人生に起こったことはなんでも小説に盛り込むことができるので、いっそ無駄がないという人がいたけれど、関西人にとってはそんなこと、とうの昔からの日常ごとだ。それこそ、笑われてなんぼの人生。人生とは、自分自身の手により脚色され演出される、劇場的営為にほかならない。
自らの身に起こりうる出来事は、すべて笑いの種、ネタに還元される可能性を秘めている。これが関西人の基本スタンスだ。その出来事が特殊であれば特殊であるほど、ネタとしての希少性は強まり、たとえそれが凶事であったとしても、受けがとれるならばむしろ運がよかったとさえ思う瞬間がある。極端な話、人の、身内の死でさえも笑いの種にされることもありうるのだ。
なんと不謹慎なといわれると、返す言葉もない。だが、これは決して茶化しや冗談ごとにしようというのではなく、ひとつの現実を現実として受け止めたうえ、客観化し再び世界へと返す試みなのだ。
禍福は糾える縄のごとし。災いは人を選ばず、誰しもの頭上に降る。それは病であり、それは災厄であり、人は哀しくもその前に無力だ。そんなわれわれに残された抵抗の手段は、せめてその災厄病苦を笑い飛ばすのが関の山だ。いや逆に笑いの作用によって負の価値、感情を反転させてしまうのだ。
それを知ってからか、関西人は自分の身に降りかかったことを積極的に笑いと変え、ことごとく現状を打破し乗り越えてゆくための起爆剤と変えてしまう。事象、事件を自らの支配下に組し、自身の精神的身体的負荷を軽減するための生きる知恵であり、世界を自分のものと変える精神の勝利者となる。
だが、関西に生まれたものがすべて真の関西人ではありえない。精神的超越者としての関西人は熟成される。関西人として生まれるのではなく、われわれは関西人となったのだ。故に超越的関西人の素質を持つものは関西に限らず、また関西に関西人はむしろ少なくなりつつある。