メディアを疑う

 痛ましい事件があると、決まってメディアが騒がしい。事件に至った経緯やその洞察。しかしそれら以上に熱狂するのが、事件の詳細を克明に描く、被害者への肉薄だ。

 事件の当事者からは、恐怖の体験談と目の前で起きたことを詳細に聞きだし、関係者にはお気持ちとやらをうかがってみる。画面に映るのは凄惨な瞬間を想起させる痕跡か、現場に手向けられた花束や悲しみの跡。視聴者の理性の存在を疑うかのような、心情に訴えかけるものばかりが次々と陳列される。

 目的は明らかだ。扇情的な事物や物言いでもって世間の耳目を集め、遡及効果を高める。しかしあくまでも自己の利益追及のためになされるそれらは、事件への社会的興味を煽りながらも、本質へ至る道を閉ざしてしまう。事件は、メディアの用意した雛形によって改めて書き直されることによって、個別の顔を失い、大衆の求める答えと反応を内包するありふれた形式に押し込められてしまうのだ。

 皆にわかりやすいようにという親切心は、わかりきって手垢にまみれた形式、図式を再生産し続ける。それを求める者たちは、事前に用意されていた答えを見つけて安心し、それより前に進むことをやめてしまう。メディアは、大衆の意見を代弁する機構として存在し、変化することを望まないその性質が、大衆とメディア双方から物事の本質を見つめる能力を奪い、考えないように考えないようにと誘導する。

 そのようなメディアにおいては、大衆が求めるものを提供するというそのことだけが正義だ。求められるままに提供されるそれらは、往々にして加熱、暴走し、本来あるべき姿から逸脱する。自身を見失い個人の領域に踏み込んでくるメディアは、数と強者の論理によって成り立つ一方的な暴力としか映らない。

 エゴと奢りの渦巻いた、歪んだ視線でものを見ることになれてはいけない。メディアを通した安易な見方を捨て、自らの目で見、判断できる自分であることを求めよう。


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公開日:2001.06.13
最終更新日:2001.09.02
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