知り合いの「よしこ」さんは、ずっと「けいこ」さんと呼び間違えられてきて、それがとてもいやだったそうだ。ふりがなをうってあるのに「けいこ」さんと呼ばれた日には、腹立たしさも通りすぎるという話だ。
自分は、それほどまでに自分の名前にはこだわらなかった。むしろ嫌っていたといってもいい。自分のではない名前を創出して、けれど自分の名前ほどに自分に合う名前がないことが、たまらなくいやだった。いっそ、名前などなければいいと思っていたほど。名乗るのは嫌いなのに、どんな言葉を勉強しても、自分の名前の教えかたが最初に出てくる。うんざりする。誰でもない誰かになりたかった。
知りあいに「あやこ」さんがいる。試しに訊いてみたいと思った。「ふみこ」さんとよく呼ばれませんか。すると確かにそうだという。そしてそれがとてもいやだったという。もう一人の「あやこ」さんもそういっていた。
昔の知り合いで、どうも読めない名前があった。「はるみ」説が優勢だったが「ひろみ」の可能性もぬぐえず、さらには「ようみ」と読めないこともない。電話で「ようみさんお願いします」と頼んで取り次いでもらえた人間がいて、「ようみ」説も簡単に退けることは出来なかった。
結局、彼女の名前を知らないまま離れた我々だったが、彼女はなぜかたくなに、誰にも自分の名の読みを教えなかったのだろう。それは、彼女が少なくとも僕たちに、理解されることを望まなかったからとしか思えない。名前は所詮記号に過ぎないものの、記号としての指示性を超えた力を持っている。知られることで一歩近寄ることが出来るのが名前なら、名前を知らさないことで、彼女は我々を遠ざけていたのだろう。
先達て、ふと知りあった女性の名前がその昔の人に似ていたので、思わず声を掛けてしまった。「はるか」さんとおっしゃいますか。一度目に正しく呼ばれたのは初めてだと、嬉しそうに応えてくれたのが印象的だった。