友人知人で集まって、食事をする機会があったとしよう。外食なら問題はないが、それが個人宅となると話は変わる。食事の世話は誰がする?
それがホームパーティだったら主催者の妻が、それが友人同士の会合だとしても、自動的に女性の仕事として押し付けられる。それは無言のうちに、男といわず女といわず、やるのが当然、やって当然とばかりに、いそいそと女は従事し男はそこには参与しない。漫画家、けらえいこはいう。
「思うに彼女がこうしていてもみんなヘーキなのは、やっぱり差別なんじゃ?」
差別だろう。
本来、対等であるべき人間関係に、性という逃れえない記号によって刻印される役割。女は家の仕事をしてあたりまえ。ところが男がそれと同じことをすると「偉い旦那さん」ということになる。社会に出て同じだけの労働をしていても、家事は女のもの。男はその責務を免れる抜け道にこっそりと消えていく。
これを差別といわずしてなんといおう。そして、僕はこの差別を深く憎んでいる。女が女であることを強いられると同様に、男も性の縛りからは抜け出せない。愛すべきコミュニティのために奉仕したいという思いは男にもありえて不思議はないはずなのに、社会的性はこの機会を僕から奪う。僕を、僕という個人から単なる男という仮象へと、変えようと迫る。
個性とは千差万別であり、誰もが別々の顔、思いを持っているはず。なのに、押し付けられる男や女の仮面でもって生きなければならないというのは、なんという不幸なのだろう。料理の好きな女性がいる、それはかまわない。しかし女性だから料理が好きに、また上手であらねばならないという圧力があるのだとしたら、彼女は自分を否定しなければならないのだろうか。社会に定められた価値は、彼女自身の価値以上に立派なものだろうか。
そうではないはず。彼女は彼女である故に美しい。だから僕はパスタを茹でお好み焼きを焼き、食器を洗い続けたい。
けらえいこ『セキララ結婚生活』東京:メディアファクトリー,1991年。
ジョルジュ・デュビィ,ミシェル・ペロー「女性史を書く」杉村和子,志賀亮一訳 杉村和子,志賀亮一監修『女の歴史1 古代1』所収【,3-24ページ】 東京:藤原書店,2000年。