撮ったのは誰の視点からですか?

 写真を撮りにいった。ファインダー越しに世界を見、自分の視点をかたちにする作業。出来上がってくるのは、自分の視野を区切った新しい世界。それは自分の確かにその場に立ちあったという証拠であり、それゆえ僕は写真が好きだ。

 被写体は僕にはめずらしく人間であった。いつもは風景しか撮らない。風景は人の思惑に関わらず、厳然としてそこにあるだけであり、意味を見出すのはあくまでも撮影者だ。鋭敏でなければならないが、鷹揚を忘れてもいけない。これは人間相手でも同じ。人はその内面が充実して表に発散されるほどに、魅力は増し興味は尽きない。

 被写体に引き付けられるままにシャッターを切る。ダイナミックな人間の躍動を捉えたいと時を待ち、うちに沈む感情を写さんと息を潜める。話者の一挙一動に心を添わせ、被写体とともに自分も飛ぶのだ。高揚し一歩の距離を詰め、抑制のもとに下がる。あたかもダンスを踊るがように、ぎりぎりの間合いを計る面白さは言葉にはならない。

 だが、気付いてしまった。本当に僕の写真は、僕の視点を表しうるのか。今回の被写体はシンポジウムの演者とパネリストたちだ。僕は、僕の視点で本当に彼らに向かっていたのだろうか。

 シンポジウムや対談を取り扱った記事。新聞紙上や雑誌でよく見る構図がある。話者は斜から撮られ、おおよそ同様の顔をして収まっている。語る顔であっても聞く顔であっても、いつか見た構図を求めている以上、写真に切り取られた瞬間に陳腐なありきたりの雛形に収まらざるを得ない。これでは過去を再生産するばかり、僕の視点はどこにもないじゃないか。

 仕事だからこれで充分という考えもある。期待されるかたちを、期待されるままに作れば仕事は終わり、文句もないだろう。だが、そんな視点になんの意味を見ればいいのか。

 僕は僕自身として場に挑みたい。立ちあったのは確かに僕だと。そういえるようでなければ、全部が嘘になってしまう。


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公開日:2001.03.12
最終更新日:2001.09.02
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