人を占う機会なんてぐんと減ってしまったのだけれども、それでもこの時期になればにわかに占い師に戻ってしまう。占いはもうやめよう。去年も今年も同じことを思った。けれど、ついたお客さんは裏切れない。たいした期待じゃないのは分かっていても、それをふりきれないところに僕の人のよさ、あるいは気の弱さが見えないか。
占いは憂鬱になるのだよ。束の間、普段は決して交さないような会話に非日常を感じ、高揚する気分に我を忘れる。この状態――僕は占いの狂気と呼ぶのだが――が醒めたときの空虚感ったらないのだ。あくまで、占いは行きずりであるべきという僕だけれど、占いの結果がどうなったか、それを知ることが出来ないということに少し物足りなさを感じている。行きずりがよいというのは、言う言葉に責任を持つ必要がないからではなくて、先入観なしに相対することが出来るから。占いの成否に関しては、はじめから当たらない占いということを明らかにしているくらいのものだけど、だからといって当たらないと言うことで責任を放棄しようとしているわけではないのだ。
僕の占いは、未来を見ようというものではない。未来とは、事柄の持つ傾向を知ることでわずかに予想できる程度のもので、決まり切ったなにかがあるわけではないのだ。決めるのは、その人生を生きる本人自身。僕はただカードを繰り、その出た目によって現状を分析するヒントを得るだけだ。決してその人の将来を見通すわけではなく、そこに迷いがあればその不安を明らかにし、必要ならば後押しを、あるいは立ち止まって考えるきっかけを作りたいだけなんだ。その当たり前のことを忘れないように心がけている。
それだけに自分の言葉には責任を持ちたい。出来れば、自分がどうその人に関わり得たかを知りたい。この願望は占い師としては不遜だろう。一期一会を大切にしなければ。だが、今年は望む人にはカルテを作成しようかと思っている。