あるのだかないのだかわからないくせに、人をやきもきさせるもの。なのに、人間にはどうしようもないもの。それは時間だ。時間をどうにか自分の支配下にといくら願ったとしても、時間は人間の思惑とは別に、勝手気ままに進んでいってしまう。
もし時間を自由に操作できるようになったら、どうしたいだろうか。溯るか、早回しにするか、あるいは止めるか。想像は様々に広がるが、一番願うのは止めてしまうことだろう。止めて、永遠の今に止まり続けたいと思う。
一人でいるとき、最も時間を感じている。世界にいるのは自分一人で、そのほかにはなにも存在しない、目の届く範囲が世界のすべてと思う瞬間。時間さえ止まっているかに感じ、絵画の中にいるような錯覚を覚えるほどだ。この瞬間が永遠に続いてくれればどんなにかいいだろうと夢想する瞬間、その意識が自ら最も美しい状態を破って、再び時間を取り戻させてしまう。この錯誤の狭間で、時間から抜け出、再び戻りを繰り返しながら、普段はありきたりのものと考えている時間を、まるで目に見え手で触れることの出来るものであるかのように、明確に感じている自分に気づくことが出来る。
なぜ時間を止めたいのかと問われれば、自分に出会いたいからと答えたい。まるで他人の人生を生きているかのような日々の暮らし。自分を切り売りしながら、あくせくしている自分がいる。本当の自分は硝子戸の中に置いてきたまま、作り物の自分でいることに疲れ果てたとき、自分を追い立てる時間から少しの休みをもらって、自分の世界へ戻ることはどれほど安らぐことだろう。話しもせず、なにも見ず、ただただよどんだ時間にたゆたっているだけの間。本当の自分と出会えたのだと実感し、遠くから自分を見下ろす自分に気づく。そこに確かにいる自分を見て、やっと穏やかにあることが出来る。
しかし時間は時間の都合で流れる。動き出した時間に、押し流されていく自分が見える。