隔たりと速さ

 長距離の移動は、生命に負荷をかけてそれを削ると、ずっと以前から思い込んでいるふしがある。渡りをする生物は、それに応じた形態をもって、生命を距離の移動に伴う疲弊から守っている。

 人間は太古、遥かな時間をかけて多くの距離を渡ったというが、定住してもはや長く、その身体は長距離移動にもはやむかないように変化、いうなれば退化してしまっているだろう。それでも、近世においてはかなりの距離を徒歩で渡った。しかし、現代の人間はもっぱら自力での渡りには耐ええない。

 距離の移動がもたらすのは、身体への負担や疲弊ではなく、もっと根源的な生命に対する影響力――食事が徐々に魂を汚染するといったような、妄言、迷信の類いの力である。この妄想がゆえに、未だ距離の移動に際しては一抹の不安をもってしまう。

 現代人は、今となっては徒で移動することを、ほとんどしなくなった。替わりに乗り物を発展、発達させ、時速二百キロを超す超特急が地上を走り、音を超える速度さえ手にするほどになった。自力ではかなわない距離を、これら手段を媒介することにより、遥かな高効率のもとに渡ってしまう。その際、われわれ人間の代わりにその手段が支払うエネルギーといったら、莫大なものだ。

 いうならば、乗り物というものは手段にして、われわれを生命の危機から守る機構であるのだろう。形代として、本来われわれが担うべき代償を、彼らが負担してくれている。それらの後ろに身を隠して、われわれは効率と安全、速度を実現した。

 新幹線は速い。句点を打つ間もなく、外世界と日常をつないでしまった。本来は距離とそれに伴う時間でもって測られた、生活の半径をはるかに拡大させた。もはやかつての句読法では語りえず、すべては日常の語形で処理される。速度は、距離とともに異界を消し去る力である。

 速度の前に、感慨ははぎ取られるままにある。思うよりも速く現実化する力に、言葉は追いつかない。


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公開日:2001.04.23
最終更新日:2001.09.02
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