夜行バスで東京に向かうと、新幹線とはまた違う風情があるだろう。熟睡出来ない座席に沈んで、時折停車するたびに窓の外を眺めてみる。そうすれば、いつもの景色でもまた目的地でもない、中途な空間に投げ出された気になる。バスサービスの、いつもは聴かない音楽を、もたない間を埋めるために流しながら、まわりの乗客は寝入っていて、自分一人が社会からも空間からも疎外されたように、孤独にありえるのは旅の異化作用のためだろう。
カーテンを閉め切れば、その向こうにはなにもなくなる。極度の閉塞感は引きこもりのやさしさでもって旅客を受け止める。薄闇のなかで自分は、いつまでも夜が明けずバスが走り続けるといいなどと思いながら、うつらうつらとまどろめば、止まっていたバスは動きだし、走っていたバスはどこかに身を落ち着けていている。意識の頼るよすがをいろいろに振り回されて、自分が誰だったかもよくわからなくなってくるほどに、夢と現の境は曖昧なのだ。
すっかりわけがわからなくなったころに、空は明るくなりはじめ、そうなれば目的地はもうすぐだ。現実への引き戻しに抵抗して、無理にでも目を眠り、ぎりぎりまで鈍重な感覚の引き伸ばしをはかる。しかし、そんな抵抗がなんの役に立とうはずもないのであって、目的地に着けば目を覚まさせてバスから降りるほかにない。
バスから降りれば、東京は朝ぼらけだ。まだ街は起きておらず、早開きのコーヒー店も準備中で、手持ちぶさたで駅構内を徘徊する。ごちゃごちゃの路線図を見上げながら、今日の行き先を適当に選び出して、同道の外国人と怪しげな国際交流なんぞをしながら時間を潰す。あまりにやることがないので、駅売店で朝食を買い、仕方なしに目的地に向かう電車に乗ってしまおう。
東京を生活圏にする人たちとは逆方向に、環状線をぐるぐる回ってとろとろと眠ればじきに目的地。乗っても降りても浮いた自分に安堵する東京の朝ぼらけ。