ネットにおける匿名性という言葉が、もはや過去のものとなろうとしている。現実に対峙する非現実的な空間という幻想がそぎ落とされ、あくまで現実の延長上に存在する、社会の一部としてネットは位置づけられるようにまで至った。追追傍若無人といえる言動の類いは静まり、われわれは顔と名前をそれぞれ合わせ持つ有形の個人として、責任を追及されうる存在に引き戻される。だがその変化は、われわれにとって本当に有益であるといえるのであろうか。
情報の有効性についての判断は、一般にその発信者に対する信頼性によっておこなわれる。見知らぬ個人によってもたらされる情報よりも、大新聞、テレビメディア等によって周知されるものが重んじられるのは、ある意味当然だ。だがわれわれの得たネットという情報媒介手段は、既存のそれと全く異なる情報文化があるということを、われわれに知らしめた。それはすなわち、無名の情報発信者によってもたらされる情報の混沌が持つ、情報の匿名性と自立性である。
ネット上の情報を検索する手段として、各種検索エンジンは非常な有効性を持つ。機械的にスコアリングされた索引によって結びつけられる無名の閲覧者と著作群の出会いについて考えるとき、ある日偶然乗り合わせた満員電車の車中で聞いた見知らぬカップルの会話に引き起こされた一過性の発想というものとの類似性を思わせる。思いもかけない着眼点や全く係わり合いのないと思われていた事象が、その偶然の作用によって隣り合わされる。この予期せぬ出会いが、沈滞する思考を鼓舞し、新たな発想を産みださせる契機として、確かに存在している。だが、その発想の原点となった情報の真偽が疑わしいとして、待ったがかけられることもあろう。確かに、そのカップルが何者であるか知らない自分にとって、彼らにより話された内容の真意など知るよしもない。だが、その雑情報によって引き起こされた発想は確かに自分のものであり、その情報をどれまで高められるかは、ひとえに情報の加工者、生産者としての自身の能力に関わる問題である。そして、そのように産みだされた情報を、またあの日のカップル同様に吐き出すとき、彼はまた別の無名著者の発想の源として、記憶される存在になるかも知れない。
情報が反響しあいながら新たな情報を生み出す場としての可能性は、ネット以前にもないわけではなかった。それは主に学問の場として機能する、一種閉じられた世界であった。決して門外漢を差別し追放することに躍起になっていたわけではないが、その世界において充分な能力を持たない人間の発する言葉は、取るに足らない情報として黙殺される。ともすれば、がちがちの伝統や先例、慣習によって硬化した思考が支配的で、さらに悪いことには、その情報がではなく、その情報に貼り付けられる箔がものをいうことさえある。よく機能したときにそれらが、綿々と蓄積されてきた情報の持つ正当性や、信頼するに足る情報を見極めるための背景として意識されるのは確かだ。が、利益や体面が関わるやいなや、悪用されることが多いのもそれらであることはまた事実である。
だが、匿名性により信頼するに足る背景を捨て去った空間において情報は、ただその作り込み、練り上げの度合い、完成度により判断される自立的なものとなった。信頼性を勝ち取るために用いられる手法は、依然旧来の学的手段に変わりがないとしても、匿名での発言は、なにか事象を論じる際の、眼前に立ちふさがる巨大な伝統を越えようとする後押しを、発信者に促しうる機会でもある。彼が巨大な情報源を形作る有志の一人として発した言葉は、また別の言葉の糧となりうる可能性を持った。どこかの誰かが発した言葉が、ネットを今日も駆け巡っている。
かように私は匿名性を愛する者である。私という顔と名――それは本当につまらないものだ、を離れ情報が生きることを願って已まない。