実をいうと、僕は高校野球は好きではない。野球自体をそれほど好まないからという理由もあるが、一日中放送される高校野球中継のおかげで、いつも見ている番組の時間が動く――見逃すという、実際的の理由もないではない。日本全国民が高校野球ファンというのなら、中継のために二放送局が終日借り切られることがあっても構わないさ。けれど本当に圧倒的多数の人間が、この中継を望んでいるのだろうか。そう苦々しく思うのが、毎年の春夏の習わし。どうぞ多チャンネル化が進んで、高校野球専門チャンネルを作ってほしい。そうなったら、一年中高校野球をやってても文句はいわない。
こんなひねものの僕である。だが、こんな僕でも積極的に応援にいったことがあった。教育実習にいった学部四年の夏だ。僕は母校の後輩達を応援するために、予選が行われる球場にいってまで応援していた。こういえば、まるで母校の野球部に対しては愛着のあるように思う人もあるかも知れない。しかし僕は高校時分、野球部の連中を見ては憎々しげに感じていたことを決して隠さない。敵のように思ってさえいた。
そもそも奴等は、粗暴にしてデリカシーに欠ける愚物の集団であった。特に同じクラスの、名列でひとつ前にあたった男が最悪。奴の、強者におもね弱者を挫くといった人間の惰弱さをあからさまにするような振る舞いの数々に、僕はスポーツマンに素朴さや爽やかさといった美徳が常に伴うわけでないということを思い知る。僕の高校野球嫌いの理由は、ここに根差しているのかも知れないと思うほどに深まっていた。
しかし、教育実習の六月に僕が出会った奴等の後輩達は、随分と違って見えた。練習の合間、休んでいる彼らの側を通る我々に、立ち上がり挨拶をする彼ら。おぼこさの残る顔つきにまっすぐな物事への興味が見えたのは、僕の頑なな偏見を払拭してしまった。指導者が変わったと聞く。そのせいかどうかは知らないが、その時僕の目に映じた彼らは、世の理想の高校球児そのものだったろう。親しげに話しただけではない。彼らにほだされて僕は、応援にいくことを約束してしまったのだ。
応援には教育実習生同僚を誘い、皆でいった。僕の直接の後輩達である、応援に駆り出された吹奏楽部の連中と一緒に太鼓を叩いて、暑い夏の盛りによくああも僕は活動的であった。一投一打に一喜一憂したのは、おそらくこれが僕の生涯の唯一だろう。そして僕の現役時分にはまったくの勝ち知らずだった野球部が、その年は見事に相手チームを打ち破った。しかも、予選三回戦まで勝ち上がっていったのだ。たいしたものだと思っている。
その年を最後に僕は応援に出ることはついぞなかったが、それでも頑張っている彼らの後進たちがいるなら、今年もそれぞれに与えられたフィールドで、悔いのない活動に自身を奮ってほしい。どうか自身の可能性を、よい方向へ向け開いていってほしいと思う気持ちに嘘はない。