我々の思考は、生まれ落ちてこのかた、育ってゆく環境で獲得する言語によって育まれ、一生をその母語に縛られることになる。幼児期に吸収できなかった要素は、才能、適応力の差こそはあれ、後天的に身に付けることはまずもってできないといってもよい。オランダにあるスケベニンゲンという地名は、片仮名でこそスケベと書かれるが、発音は激烈を極め、オランダ語に育ったものでないとまず発音できないという。それゆえ大戦中、スパイをあぶり出すためには、この保養地の名を言わせるだけで足りた。真偽のほどは確かではない、だが人が母語の支配からは逃げられないことを端的に表す挿話である。それほどに強くつきまとう母語だからこそ、人は自身の履歴を消し逃げようとするとき、まず言葉から隠そうとする。しかしそれは不可能だ。どこかに残る母語の匂いが、それがほんのわずかであったとしても、雄弁に由来生い立ちをあらわにしてしまうのだから。
喫茶店に行ったと思って欲しい。友人たちと憩うハイソなひととき、話も弾み注文したコーヒーも届いた。ありがとう、そういおうとして君は気付いたのだ。あ、ミルクがないじゃないか。顔を上げる。ウェイトレスと目が合う。その時、口をついて出た言葉――
「ねーちゃん、フレッシュくれへんけ」
このフレッシュが拙い。ミルクのことをフレッシュというのは関西だけだ。今まで流暢に標準語を操り、周囲の者に関西人であることを露ほども気取らせなかった君だったが、不用意に口にのぼせたフレッシュの只一言が、今の今まで完璧だった言語戦略を粉砕した。君の人生に捺された烙印、母語が君の正体を明らかにする。知らなかったといってももう遅い。君の明日の予定は軍事裁判、後に処刑と決まってしまったと同じである。
ところで、じゃあ関東ではフレッシュのことをなんというのだろうか。
「スジャータじゃないですか?」
いや、スジャータはほら、商品名ですから……