それはまだ僕が学生だったころの話。
一年の浪人生活の末、ようやく入学できた大学。そこは、女子大といってよいほど男女比に偏りのある、一種独特な世界だった。数少ない男連中はおのずと親密さを増し、学年の壁もまるで関係なかった。
秋から冬に季節が変わってゆく。日毎に寒さは増し、コート姿の学生が通学路に見える。大学生活にもようやく慣れ、人間関係もそこそこ分かりかけてきた時期。僕には悩みがあった。
水曜日の第四限は、合唱の授業と決まっていた。男子の数が少ないため、一回から三回生までの全員が、無理矢理集められるのが恒例。四限が終われば後にはなにもなく、僕はいつもさっさと帰った。
「もう、帰るん?」
「はあ、帰りますが」
お決まりのやり取りがかわされ、水曜は決まってひとつ上級の先輩と帰ることになる。ただ彼は、妙な雰囲気をまとっていた。やたらとべたべたしてくる。話しかけが、奇妙に粘つく。僕は疑惑をもって、同級の、彼と同専攻の友人に聞いてみた。
「なあ、あの先輩ってホモなん?」
「え、そんなことないよ。ええ人やで」
同性愛者であることと、その人がいい人かどうかには、なんの因果関係もないと思うのだが…… という素朴な疑問は呑み込めても、彼への疑惑は消せなかった。
ある水曜の放課後。最寄り駅へ向かう道程で、突然彼が聞いてきたのだった。
「うさぎと?」
はあ? 一体なにいっとんねん。
「なあ、うさぎと?」
一体なにをいおうとしているのかいぶかりながらも、僕は答えた。
「亀――、ですか?」
答えるやいなや、僕の左の二の腕に、彼は甘くかみついてきた。
「な、なにをするんですか!?」
「かめ、っていったやん――」
電車に乗るわずか五分のあいだに、にじり寄る彼を避けてロングシートの端から端まで移動したこともあった。だが、これを誰に相談することもできない。ほかの誰も、彼がしたことを信じないかも知れないからだ。
ここに、セクハラの持つ陰湿な暴力性がある!
僕は、短大生だった彼が編入試験に失敗することを心から望み、その望みは叶えられた。今となっては、彼が本当に同性愛者だったのか、あるいは誤解だったのかは確かめようもない。ただ僕はこの経験を経ることによって、セクハラ被害者への理解と、誰に話してもうけるねたを得ることができたのだった。とすれば、まあ悪くはない体験だったのだろう。また同じ思いをしたいとは、絶対に思わないけどさ。