待ち合わせの約束に二時間も早く着いてしまった。本屋で時間をつぶそうにも、僕にとって本屋は鬼門である。つい先日も買いそびれていた本やら辞書やらをまとめてまかなったところ、もう今月は本にあてる余裕はなかった。そういう訳では書店に長居もできないと、飲まぬつもりで何時ものワインカウンターへと向かった。
日曜の昼間である。客は一人、カウンターには出払っていて誰もいない。その寂れた雰囲気に、昼間から酒でもなかろうと、側の紅茶屋へといったらば若い女性で一杯で、これもなんだか性にあわなかった。
向かいの店で煎茶をいただくことにした。
百円硬貨二枚でお茶と菓子が出てくる。手前を直線に切られた丸盆に煎茶と饅頭がのせられて、饅頭は栗餡である。僕は菓子を楊枝でちまちまと小口に切りながら、ふとなんだか無性に懐かしくて悲しくなってしまった。理由は自然明らかだった。思い出される美しい印象が自分の身におこったことでないと、他ならぬ自分自身が承知している。薄暗い店内向かいに座った人の映像が、ただの脳の記憶でしかないということが、地下街の真白い電燈にやけに対照的で、その人の存在しないことで今の自分も同様存在しないような、空虚なような、そんな気分だった。
この頃ずっと思っていた大宰式、――今日マチネで観たやたら大仰な演劇、くだくだとしつこくって、表現も肌の表にとげとげと逆立つみたようで生々しくって、すっかり毒気を抜かれてしまって、くたびれついでに大宰式は止してしまおうと決めた。だのに自分で止したつもりでいただけで、しぶとく影つきまとっていたようである。お茶の温度にすくわれた。二杯目はサービスだという。急須から茶を注ぐその景色もまた美しいと感じた。美しいものはそこここに無私にころがって、人の中にいくつもわだかまっている。明るい緑に濃緑の粒子がきらきらと回っている。
そゝがるゝ煎茶の碗の薄緑落つる茶粒子濃く浮く沈む