相手は加えてなお先に言葉を連ねることに余念が無く、「信じた者から騙せ」だの「身内でも気を許してはならない」だのと、世間に流布する不信の訓えを数え上げることが無上の喜びでもあるかの如き有様である。自分もまた世間を渡るうちに、知恵の多少もつけたという自負がある。世間にはびこる人心の、頭から信じて痛い目に合ったことも一度や二度ではない。だが、人を信じぬことをこれほどに強弁する謂れは、我が身にはなかった。まして職業の上に生ずるものである。彼の言様を聞き過ごすにまかせて、穏やかにあれる自分ではなかった。だが短気が身のためにならぬと骨身に沁みてもいるために、なんとかこれを円くおさめんと、言葉を吟味したうえで一言を加えた。
「その考えが個人のものに留まるのであれば、それもまたよいのでありましょう。ですがこれが職業のこととなれば、それこそ始まるものも始まりません。まずは人の良心というものを信じてかかるのが筋でしょう」
相手もここに来て漸く、僕の不快である事に考えが至ったのか、また充分に自身の言いたく思うところをすっかり開陳し得て満足したのか、それまで盛んに吹いた風の急に止むが如くに話しは終わり、慌ただしい日々の仕事の些事に紛れて、立ち消えとなった。
一夜が明けて人間の不信を言い募って憚らなかった人は、僕を見つけるや喜ばしげに声を掛けてきた。「昨日のね、ほらあなたが返ってくるって言っていた本。手紙を添えてポストに返してあったわよ」
そうですかと自分は単簡に答えると、その手紙を見せてくれるよう頼んだ。されば相手は紙屑入に屈み、しわになった茶色の紙切れを抽き出した。受け取り見れば、そこには期限の過ぎたことへの詫びと短かな礼があった。
肩に切り揃えた黒髪の、年頃の娘に似合わぬ頑なさばかりが面だったあの女学生が書いたにしては軟かな文字と思える。時に余は紙片に目を落とし、しばし安息と精神を横たえる。