群衆

 電話のベルで目が覚めた。起き上がるのも億劫とひっつかんだ電話の相手は、果たして古い馴染みの友人であった。

「おい、君、大変なことになってるぞ。窓の外を見てみなよ」

 時計を見ると、まだ朝早い。明けてまもなくといったところか。こんな早い時間になんだ。私はのそのそとベッドから降りると、友人の言葉にいぶかりながらよろい戸を一気に引き上げた。

 明け初める空。まだ弱い光は、それでも私の目には強烈だった。一瞬のめまい。だが、そののちに訪れた光景は、友人の言葉、私の想像をはるかに越えたものであった。

 そこには、群衆があった。車道といわず路地といわず、人がひしめき合っている。群衆はただ一点を見据えながら、一箇所を目指して絶えず動いている。遠くを見れば、人の列はどこまでも続き、それは群衆の、もっと増えようとする意思をあらわにしていた。

「なんなんだ、これは?」

「見ての通り、群衆だよ」

 問い掛ける私に、友人はいやに素っ気無い。なにを分かりきったことを聞いているのか。友人は言外に、そう告げているように思えた。

「彼らは一体、――」

 私は、電話の向こうの友人に、まくしたてるようにして問い掛けるのだが、友人からの返事はなかった。耳をすませてみても、自分の息遣いが聞こえるばかりだ。自分の荒い呼吸が、背後にせまった追っ手の声のように感じられ、私は受話器を耳からはなした。

 群衆が目指しているところとは、私が今いるこの場所にほかならぬのであった。私を目がけて群衆は、凝縮するように集まってくる。窓から見下ろす直下を中心に、同心円を描く群衆のさざ波。彼らは表情もなく、ただ私を見詰めている。

 群衆が、手に手にプラカードを掲げているのに気が付いた。不思議となにが書かれているのか私にはまったく読めなかったのだが、その意味するところは私にも容易に見て取れた。向かいの建物の窓窓に、人が鈴なりになって、巨大な横断幕を吊り下げようとしている。まだ開ききっていない幕の、そこになにが書かれているのか、私にはすでに分かっている。それらは私の過去を、あることもないことも交えて、糾弾するために用意された、人々の態度そのものなのだった。

 群衆のなかに動きを見せない一画があり、友人がこちらを凝視しているのが見えた。携帯電話片手に、流動する群衆の中で、一人立ち止まってこちらを見ている。彼の唇は閉ざされたままだが、私には彼の声がはっきりと聞こえていた。

「君か――君が彼らを扇動しているのか?」しかし、友人は言葉を発しなかった。言葉など必要ない、彼の姿が彼の語るすべてだった。私は、まさか彼がという気持ちと、いや奴ならば、だからこそという思いを交錯させ、思わず歯噛みするのだった。よい目を見せてやった、必要以上のものを与えたではないか。なのに貴様は恩を知らぬのか。その思いをのせて、私の目は彼を射ったはずだ。

 窓から見える広場は、すでに人で満杯だった。街路を埋め尽くす群衆もあふれんばかりで、あちこちの建物の外壁に取りつき、上りはじめているものも少なからずいるのだった。壁を上る人間は、先のものが次のものの足掛かりとなって、上へ上へと、一心に私の部屋を目指している。

 彼らの無表情に上気した顔に目を走らせてみる。いまだ携帯を手にしたままの友人が、凍りついたようになって、私を見ている。私は、群衆のひとりひとりに顔があることを思いだし、また私自身が、かつてはこの群衆の一人であったことを思いだしている。

 太陽がようやく中天に達しようとしていた。夕暮れを待たず、彼らの手は私に届くだろう。


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公開日:2002.01.10
最終更新日:2002.01.11
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