通勤時間帯には少し早めの時刻だが、交通量は少なくない。細く見通しの悪い道を抜けてきた車たちは、それまでのストレスから解放されて、飛ばし気味にこの道を駆けてゆくのが常だ。その車線の中央を、烏の群れが、迫ってくる車にも物怖じせず、我が物顔に占拠していた。驚いて減速する車に仕方なしに道を空ける烏たち。遠目にもそのさまが、ありあり見て取れるほどだった。
ここにこれほどの烏を見たのは初めてのことだ。いつもは送電線に数羽がてんてんと、人間なぞ気にも留めないという体で見下ろすばかりというのに、今朝は一体どうしたことか。近づくにつれ、烏が群がるなにかがはっきりとする。はじめは生ゴミかなにかと思っていたそれは、車に轢かれた一匹の茶色い犬であった。
思わず自転車を止めそうになるが、そこは気も心も毫ほども残すべきではない、そのままに駆け抜けるがよいと判断した。通りすがりに見る茶色の犬は、口から血を噴いてはいたものの、全体に奇麗な印象を与える。ただ腿の辺りがついばまれて、身の赤さを露出させていた。
自転車を走らせながら、あれが人だったらばと夢想した。人ならば即座に片づけられ、ついばまれるままに放置されるなどありえない。病院あるいは警察かを転々した後、遺族の手で荼毘に付され灰と煙になる。多少の異同はあったとしても、この国では概ねこの道筋をたどるだろう。死ねどその身体は、自然の流転に戻ることなく、文化の中に葬られるのだ。自分はそこに大いに疑問を感じている。
チベットには鳥葬という風習がある。死者は遺族の手によって解体され、鳥についばまれることで空に返る。野蛮、残酷と思うかもしれないが、この儀式を通じ生者は死を受け止め、死者は自然に返される。ここには、われわれの文化が失った死と生の交代が、生々しく残されているのだ。
自分の最期を思えばいつも、野晒しの死をと願って已まない。犬の死に様に自身を重ねる僕だ。